後宮編 第27章:毒の揺り籠
朝食を終えたアズールは、政務を短時間で片付けると、約束通り離宮へとエメロードを迎えに来た。
昨夜の甘美な余韻と、それに続く自身の男としての自信を揺るがす疑念は、心の奥底に封じ込める。
「ダーリャには訪問を伝えてある……だが、あの女は気性が激しい。
いまは娘のこともある、何をしてくるか分からぬから注意しろ」
アズールの警告を、エメロードは「わかった」と淡々と受け流す。
彼女にとっての関心事は、昨夜の甘い熱でも、アズールの機嫌でもない。
回復したとは言え、先日までは命の灯火が消えかけていた一人の子供の体内に、何が潜んでいるのか。
その一点のみが、彼女の冷静な思考を占拠していた。
二人がダーリャ妃の私室へ踏み込むと、そこには重苦しい静寂が漂っていた。
香炉の匂いすら毒々しく感じられるほど、部屋の空気は淀んでいる。
壁際に控える侍女たちは皆、青ざめた顔で震え、中央の寝台では、普段は高慢な気位で知られるダーリャ妃が、ひどく憔悴した様子で幼い娘・シリンの手を握りしめていた。
アズールの姿を見つけるや否や、ダーリャは縋り付くように駆け寄った。
彼女の瞳には、背後に控えるエメの姿など微塵も映っていない。
「アズール殿下……私たちの娘が、シリンが!
やっと昨日は熱が下がって。
殿下が見舞いに来てくださった時は、あんなに元気だったのに……先程からはもう……反応も……」
アズールは泣き崩れるダーリャを優しく抱き寄せ、シリンの小さな手に自らの大きく硬い手を重ねた。
それは、戦場で剣を握る際の手とは全く異なる、慈愛に満ちた触れ方だった。
「シリン……父だ。聞こえるか」
その声は、政敵を威圧する覇王の冷徹さを完全に脱ぎ捨てていた。アズールの表情が微かに歪む。
我が子の皮膚から伝わる熱量は、つい前日よりも明らかに高く、死の気配を孕んでいることを察したのだ。
彼は顔を上げ、すがるような眼差しでエメロードを見据えた。
「今日はお前を助けられる薬師を連れてきた……エメロード。
シリンを頼む」
その声音に、エメロードは一瞬、眉をひそめた。
この男にも、守るべき小さな命に対してはこれほどまでに脆く、無防備な一面があったのかと、静かな驚きを覚えた。
だが、いまは感傷は不要だ。
エメは即座に表情を仕事のモードへと切り替え、寝台の傍らへ歩み寄った。
「このような得体の知れない娘に何をさせるつもりですか! アズール殿下、どうかおやめください!」
ダーリャが叫び、エメロードの進路を遮ろうとするが、アズールがその身体を制して力強く宥める。
その隙に、彼女は侍女たちを捕まえ、矢継ぎ早に問い質した。
シリンが倒れる直前に立ち寄った場所、食べたもの、誰と会ったか。
侍女たちは、アズールの前で詰問されるエメロードの圧倒的な専門家としての空気に圧され、隠し立てすることなく情報を吐き出した。
手元のメモに情報を整理し終えると、彼女は躊躇いなくシリンのまぶたを押し上げ、口内を覗き込み、皮膚に走る僅かな赤紫の斑点に指を触れた。
「……これ、病気じゃないよ」
エメロードの独り言が、静寂の部屋に冷たく響いた。
「この口内の荒れ方、目の充血、なにより皮膚に出ているこの赤紫の斑点……これは毒だよ」
ダーリャが恐怖に引き攣った悲鳴を上げ、寝台にへたり込んだ。
エメロードは即座にカバンから紙包を取り出す。
中身を侍女に命じてぬるま湯に溶かさせると、躊躇なくシリンの唇へ運んだ。
「エメロード! それは何だ!」
アズールが反射的に止めようとするが、彼女は一瞬の隙も突いて薬をシリンの口へと流し込んだ。
「ああっ! シリンを殺す気か! この魔女め!」
ダーリャが崩れ落ち、アズールやエメロードを呪うような絶叫を上げる。
部屋中が混乱に包まれ、侍女たちが主を慰めようと右往左往する中、彼女はただ静かに、シリンの様子を観察していた。
数分後。
荒く喘いでいたシリンの呼吸が、嘘のように深く、穏やかなものへと変わった。
「……呼吸が、楽に……?」
アズールが息を呑む。
状況を理解できずに呆然としていたダーリャも、娘の顔色がわずかに戻ったことに気づき、シリンの名を呼びながら縋り付いた。
成功した。しかし、エメロードの表情は一向に晴れない。
それどころか、彼女はエメラルド色の瞳を伏せ、シリンの首筋に残る斑点を凝視したまま、難しい顔で黙り込んだ。
彼女が感じ取っていたのは、毒を解毒できた安堵ではない。
この場所で、これほど精密に管理された毒が使用されたという、より深く暗い闇の兆しだった。
この後宮のどこかに、アズールの支配が及ばぬ場所から忍び寄る悪意の根源がある。
エメの胸の内には、戦慄にも似た確信が広がっていた。




