後宮編 第26章:覇王の凋落と、焦燥の1日②
美しくも珍しい「白金の鳥」を閉じ込めていた離宮の扉が、朝の光とともに開かれた。
後宮の支配者たるファールスの世継ぎの君は、かつてないほど不器用な子供のような表情で、ベッドの上に座り込んでいた。
腕の中には、昨夜の情事の余韻を微塵も感じさせないほど無防備に、いびきをかいて爆睡するエメロードがいる。
(……よかったのか、悪かったのか)
アズールの脳内には、深夜からずっと同じ疑問がループし続けていた。
あれほど乱れ、甘く蕩け、自分の名を呼び続けたはずの彼女の姿が、鮮明に脳裏に焼き付いている。
それなのに、あの冬至の夜の翌日の「ぜんぜん気持ちよくなかった」という言葉が、呪いのように思考を縛っていた。
(まさか、これまで抱いてきた妃も妾妃も、正妻のシファでさえも……皆、俺という権力におもねり、本心では不満を抱えながら演技をしていたというのか? あるいは、知らぬ間に媚薬を……)
考えれば考えるほど、これまでのアズールの盤面が、足元から音を立てて崩れ去っていくような錯覚に陥る。
「……んふう……ふあああ」
腕の中で、小さく可愛らしいあくびが弾けた。エメラルドの瞳がシパシパと瞬き、エメロードがゆっくりと覚醒する。
アズールは武者震いするような緊張感とともに、運命の審判を待つような顔で彼女を見つめた。
「……ああ、起きたか。大丈夫か? その……昨夜の、あれは」
(審判を下せ。
俺が下手だったのか、それともお前には何も響かなかったのか…)
アズールの無言の問いかけを、エメロードはきょとんとした顔で受け止めた。
「んん? あれ? なんのはなし? ああ! ダーリャ妃の娘さんの件ね?」
彼女はあっけらかんとして、昨夜の情愛など遠い彼方の出来事であるかのように話を続けた。
「大丈夫、ちゃんと今日にでもすぐに調査に行くよ。でもアズール、貴方がダーリャさんをちゃんと説得してよ? 私だけじゃ……追い返されちゃうしさ!」
小鳥の囀りのような愛らしい声で、朝一番に突きつけられた冷徹な現実。
アズールは眩暈を覚えた。
「……お前、他に何か……言うことはないのか!」
声を荒らげるアズールの言葉に、エメロードは小首を傾げた。
「何怒ってるの?」
きょとんとした瞳が、無垢にアズールを射抜く。
おかしい。とことんまで、彼の世界の歯車が狂い出している。
普通の妃なら、あそこまで濃厚に愛し合えば、翌朝はもっと色香を漂わせ、媚びるような視線を向けてくるはずだ。
それなのに、目の前の娘の瞳には昨夜の熱など欠片も残っていない。
微妙な表情でフリーズするアズールの顔を見て、エメロードは心配そうに眉を寄せた。
「やだ。ねえ!お腹、減ってるの? 大丈夫?」
やはり、アズールの想像の斜め上をいく心配の仕方だった。
アズールは深い、深い溜息を吐き出す。
「……ああ、そうだな。減ったよ」
呼び鈴を鳴らして侍女を呼び、朝食を運ばせるよう冷徹に指示を出す。
エメロードの無邪気な空腹の訴えに対し、アズールは自分がどれほど取り乱していたのかが馬鹿らしくなり、同時に激しい無力感に襲われた。
「……昼過ぎにダーリャ妃を訪ねる。共に来い」
そう言い捨てて立ち上がる。彼の内心は、後宮の腐敗した掃除と、ダーリャの娘の行く末、そして何よりも自分自身の男としての自信に対する疑念で渦巻いていた。
(いや……まさか……な。本当に俺は……俺が……下手なのか?)
覇王の威厳はどこへやら、アズールは抱えたままの自己嫌悪に顔をしかめ、誰にも見せられないような悩める表情で、重い足取りで部屋を出て行った。




