後宮編 第26章:覇王の凋落と、焦燥の1日
地下研究室を出たアズールの足取りは、戦場から戻った直後のそれとは明らかに違っていた。
廊下の石畳に響く硬質な靴音は、いつになく不規則で、迷いを含んでいる。
ファールス第二の都市イスファーンの統治者としての威厳はどこへやら、彼の脳内を支配しているのは「ちっとも気持ちよくなかった」という、あまりに残酷な、しかし覆しようのないエメロードの判決であった。
夜半の廊下で、アズールは重厚なタペストリーの陰でふと足を止め、冷たい石壁に額を押し当てた。
「……ぜんぜんちっとも…気持ちよく、なかっただと」
独り言が空虚に響く。
戦場では数多の敵を葬り、政争では古参の重臣たちを冷徹な論理で血祭りにあげてきた彼が、たった一人の娘の、それも純然たる個人的な感想に、これほどまで精神を乱されるとは。
プライドはズタズタだった。
自分の技巧、経験、あるいは男としての絶対的な余裕――そのすべてが、エメロードという異物によって粉砕された。
しかし、その敗北感のすぐ背後に、形容しがたい甘美な昂りが蠢いていることも、彼は否定できなかった。
彼女の薔薇色に染まった頬、柘榴の果汁に濡れた唇、そして何より、「やり直して」という命令。
それはアズールに対する挑戦でありながら、同時に狂おしいほどの甘いさを持っていた。
翌朝ーー
ダーリャ妃からはやっと娘の熱が下がってきたとの報告があり、早朝ダーリャ妃の元に寄り見舞いを済ませたアズールは「念の為に近じか、優秀な薬師に見せよう」と告げて、自身の執務に戻った。
しかし、政務に就いたアズールは、かつてないほど「脆弱」であった。
側近が報告する戦況報告も、後宮の妃たちから届く嘆願書も、すべてが遠い世界の出来事のように感じられた。
彼の視界の端には、常に離宮で無機質に毒の解析を続けるエメの姿が幻影のように付きまとう。
「陛下、先日の徴税令の件ですが……」
「……ああ。好きにしろ」
あまりに適当な返答に、側近が訝しげに眉をひそめる。
アズールは、指先で銀の盃の縁をなぞりながら、窓の外に広がる空を睨みつけた。
夜が来るのがこれほどまでに待ち遠しく、同時に、何が起きるのかという恐怖で胸が締め付けられるのは、人生で初めての経験だった。
昼間、彼は離宮の様子を密かに探らせた。エメロードは相変わらず、涼しい顔で植物の根をすり潰し、顕微鏡を覗き込んでいるという。
まるで昨夜のあの緊迫したやり取りなど、最初から存在しなかったかのように。
その無関心にも似た落ち着きが、アズールの焦燥をさらに焚きつけた。
「……あいつは、何を考えているんだ?」
アズールは、自室の鏡の前で、自分の肌がいつになく高揚で熱を帯びていることに気づく。
洗練された衣装を身に纏い、権力の象徴である宝石を指に嵌めても、鏡に映る男は、ただの一人の男としてエメロードの審判を待つ怯えた少年のように見えた。
やり直しの夜、陽が完全に沈み、後宮が深い闇に包まれる頃。
アズールは、かつてないほど整えられた身なりで、離宮へと向かった。
心臓の鼓動が耳の奥で激しく鳴り響く。
彼は自らの掌の中に、あの夜の過ちを繰り返さないための準備を握りしめていた。
それは彼がかつて誰にも見せたことのない、あまりに不器用な、愛の形だった。
離宮の扉の前で、アズールは一呼吸置いた。
彼は覇王ではない。
死神でもない。
ただ一人の男として、重い扉のノブに手をかけた。
「……エメ」
呼ぶ声は、自身の想像以上に掠れ、震えていた。
扉の向こう、月光に照らされた寝所で、エメロードはただ静かに、彼が来るのを待っている。
その光景を想像するだけで、アズールの下腹部は熱く疼き、同時に、戦場以上の冷や汗が背を伝った。
彼は扉を押し開く。
そこには、毒と薬品の匂いではなく、無頓着なエメロードを気遣い、イザベルが離宮に飾らせた、甘く柔らかな花の香りが満ちていた。
ベッドの上に座るエメロードは、昨夜の挑戦的な瞳とは打って変わり、何かを待つような静謐な表情で彼を見つめている。
アズールは歩み寄る。
その足音は、もはや覇者のそれではなく、恋路に迷い込んだ者の不確かな歩みであった。
彼は膝をつき、彼女の膝の前に座り込む。
「……準備は、してきた。お前が痛まないように。お前が、望むように」
彼の口から溢れ出たのは、降伏の宣言だった。彼の瞳には、計算の影は一切ない。
そこにあるのは、エメロードという絶対的な存在に対する、途方もない飢えと、それを満たしたいという切実な願いだけ。
「やり直そう。……お前が、納得するまで」
アズールは、震える手でエメロードの細い指先を掴み、自身の唇へと運んだ。
それが、彼が彼女に対して見せた、最初で最後の、心からの恭順の儀式であった。
二人の間には、世界から切り離されたような、密やかで濃厚な時間が流れ始めていた。
アズールは、跪いたまま震える指先でエメロードの薄衣の結び目に触れた。
かつて戦場で鎧の紐を解く時のような迷いのなさはなく、その手はまるで壊れやすい宝物を扱うように、わずかに汗ばんでいる。
彼は一度、大きく深く呼吸をしてから、ゆっくりと衣を剥ぎ取った。
月光に晒されたエメロードの白磁のような肌を、彼は呼吸を忘れたように見つめ、次に、慈しむように指先でその柔らかな肩をなぞった。
「……まったく、ちっとも気持ちよくなかったと言ったよな」
撤回させてやる、と低く掠れたアズールの声が寝室の静寂を揺らした。
彼はエメの膝に額を預け、一度彼女の匂いを深く吸い込む。
そこから立ち上る、研究室の薬草の香り。
アズールは準備していた薔薇の香りの香油を指先に取ると、彼女の太腿の内側、最も柔らかな割れ目へと指を滑り込ませた。
滑らかな感触と、秘めやかな場所から溢れ出す甘酸っぱい匂いの湿り気。
彼は自制心を保つのに必死で、吐息を漏らしながら指先でゆっくりと輪郭をなぞり、中へと指を沈めていく。
「……あ、ずーる……んっ……」
エメロードの喉から、長く尾を引くような甘い喘ぎが漏れる。
アズールはその音に背中を震わせ、ゆっくりと、しかし確実に彼女の奥へと指を動かし始めた。何度も何度も出し入れし、彼女の身体が熱を帯びていくのを確かめるように。
華奢な手がシーツを強く掴み、指の侵入に合わせて短く息をつめ、そのたびに腰がビクッと跳ね上がる。
アズールは顔を上げ、ラピスラズリの瞳でエメロードを射抜いた。
そこにはかつての冷徹さは微塵もなく、ただ飢えた獣のような熱だけが渦巻いている。
彼は彼女の唇を指先でなぞり、そこに自らの舌を這わせた。
二人の舌が絡み合う。
熱く、湿り気を帯びた場所での密やかな接触。アズールは柔らかい口内を堪能し、彼女の喘ぎを自らの唇で吸い上げた。
熱が混ざり合い、呼吸が乱れる。
彼はゆっくりとエメロードの腰を引き寄せ、自身の硬質な熱を、彼女の入口へと押し当てた。
焦らし、慈しみ、けれどその奥底では、彼女を壊してでも自分のものにしたいという歪んだ独占欲が、血管を激しく叩いている。
彼はゆっくりと、数ミリずつ自身の存在を彼女の中に沈めていった。
異物を受け入れたエメロードの身体が硬直する。
アズールはその緊張を解きほぐすように、彼女の唇を激しく貪り、耳元で愛を囁いた。
「痛くないか……。エメ、もっと俺を感じろ。俺を…見てくれ」
深く、深く。
境界が消失するほどの融合。
アズールの身体が大きく波打ち、彼のリズムが加速する。
もう、優しさだけでは足りなかった。
彼はエメロードの腰を強く掴み、逃げ場のないほど深くまで自身を叩きつける。
肉体と肉体がぶつかり、濡れた音が卑猥に部屋に響く。
細い背中が大きく反り上がり、白金の髪がシーツに散らばった。
「っあ……ぁん、あず……っ、はぁ、っ!」
エメロードはもう、自分が誰で、どこにいるのかも分からなくなるほどに、快楽の奔流に蕩けていた。
アズールは彼女の腰を掴み執拗に攻め立て、彼女の喘ぎが短く、鋭く、高音へと昇りつめるたびに、獣のような低い声で彼女の名前を呼んだ。
「エメ、エメ……愛している。お前の全てを、俺に預けてくれ……!」
アズールの瞳には涙にも似た熱が浮かんでいた。
エメロードが自分を求めて抱きつく強さが、彼の理性を完全に粉砕する。
情愛の絶頂、アズールの全てが彼女の子宮へと注ぎ込まれる。
それは二人の「やり直し」という名の、魂の契約だった。
崩れ落ちるようにエメロードの胸に顔を埋めたアズールは、高鳴る心臓を彼女の柔肌に密着させ、この狂おしいほどの熱が二度と冷めないことを祈るように、何度でも彼女の名を呼び続けた。
エメロードもまた、蕩けるような余韻の中でアズールの背中に腕を回し、彼という男の重みを、そのすべてを受け入れた。




