後宮編 第25章: 地下の沈黙と赤い柘榴②
アズールが人生で一度も経験したことのない、魂が削り取られるような沈黙が地下室を支配した。
その表情――死神と呼ばれた男の威厳が完全に剥がれ落ちた困惑の貌――を見て、エメは月光を編み込んだかのように柔らかな銀髪を揺らしながら、ゆっくりと首を横に振った。
その仕草を、アズールは決定的な拒絶と受け取った。
ラピスラズリの瞳が激しく揺らぎ、彼は耐えがたい羞恥と自虐に突き動かされるように、自らの手のひらに深く爪を立てた。
指先から血が滲むほどの強さで拳を握りしめ、彼は内心で嘲る。当たり前だ。
冷徹な政治的駒として利用し、暴力的な熱で踏みにじった男を、誰が受け入れるというのか。
ファールスの世継ぎという仮面は完全に砕け散り、そこにはただ、途方に暮れて哀れを誘う男の孤独があるだけだった。
後宮の女たちがその姿を見れば、絶望と狂乱に胸を押さえて失神したに違いない。
「……すまない。馬鹿なことを言った。忘れろ」
アズールは魂の奥底から絞り出すような声でそう呟き、背を向けて立ち去ろうとした。その足取りには、戦場を駆けた覇者の影すらない。
「あのね、あの冬至の夜は、全然……」
背後から聞こえた愛らしい呟きに、アズールは凍りついたように歩みを止めた。
意味を解せぬまま、彼はただ、心臓の鼓動が耳を塞ぐほど激しく鳴り響くのを感じながら、彼女の次の言葉を待った。
「……ぜんぜん、まったく、ちっとも! 気持ちよくなかったわ!」
エメはアズールが持ってきた籠から柘榴を掴み取ると、鬼気迫る勢いでしゃくしゃくと貪り始めた。
ルビー色の果汁が彼女の唇を濡らし、それがまた官能的なまでの無防備さを醸し出す。
「だから、ちゃんとやり直して!」
「は……?」
あまりの衝撃に、アズールの頭は真っ白に染まった。
自分が築き上げた自負、技巧への信頼、何よりあの夜の情動のすべてを真っ向から否定された。
「あとね、あんな薬草茶は、もう絶対に飲まないわ。
私を何だと思っているの?」
追撃は止まらない。
アズールが混乱を極めている間に、エメはさらに残酷な事実を突きつけた。
「あの夜は、痛かったし、びっくりしたし……まったくもってダメよ!
あれならミリアムで貴方が私を騙すために仕掛けた戯れのほうが、あるいはこの後宮でされた『寵愛ごっこ』の時のほうが、よほど気持ち良かったわ」
彼女は頬をほんのりと薔薇色に染め、挑戦的とも、あるいは甘えているとも取れる潤んだ瞳でアズールを見つめた。
「だから、やり直して」
アズールは誰にも見せたことのないような、呆然とした、かつてない複雑な表情を浮かべた。
頭の中では「ちっとも気持ちよくなかった」「ぜんぜんだめ」という言葉が、まるで死刑宣告のように何度も、何度もリフレインして鳴り響く。
彼は自らのプライドがズタズタに引き裂かれる感覚を覚えながら、それでも彼女の瞳に惹きつけられ、震えるように頷くしかなかった。
「……わかった。…必ず、やり直す」
アズールは、自分の支配下にあるはずの後宮で、最も恐ろしい存在――自分の傲慢さを修正させようとする、この無垢で強靭な少女――に降伏した。
彼は足元も覚束ない様子で研究室を後にした。地下室の扉が閉まる音すら聞こえぬほど、彼の脳内は「やり直し」という未知の戦場への動揺で満たされていた。




