後宮編 第25章:地下の沈黙と赤い柘榴
宮殿の地下、重厚な石壁に守られた秘密の研究室は、冷たい空気に包まれていた。
香油の甘い匂いではなく、鼻を刺すような薬草と酸の刺激臭が満ちるその空間で、エメは一心にペンを走らせていた。
アズールは、その小さな背中を複雑な思いで見つめている。
ファールスの統治者として、数多の血を流してきた「死神」と恐れられる彼が、今や所在なげに視線を彷徨わせていた。
本人は無自覚だが、その立ち姿は、まるで迷い込んだ子供のようにも見えた。
「おい」
短く声をかけると、エメがゆっくりと振り向いた。
その人間離れした美貌と、意志の強さを湛えたエメラルドの瞳がアズールを射抜く。
アズールは一瞬、言葉に詰まり、無意識に視線を逸らした。
先ほど正妃シファに対して見せた、冷酷で怜悧な仮面はここにはない。
彼は手元に持っていた籠を、乱暴とも取れるほどぶっきらぼうに机へと押し付けた。
「……これだ」
「これ、なに?」
エメの愛らしい問いかけに、アズールは努めて事務的に答える。
「菓子は作らせた。
ファールスの味ではない、お前の故郷ミリアムの味だ。……木の実や果実は、知らん。
ついでだ」
エメは籠の中身を確認するよりも先に、アズールの袖口に目を留めた。土の汚れや、わずかな擦れ。
イスファーンの頂点に立つ男が、自ら採取の場にでも足を運んだかのような風体。
エメはふっと目を細め、ルビー色の柘榴を指先でなぞった。
(赤い食べ物が大嫌いなはずなのに)
アズールが母を毒殺されたあの日、彼がひどく忌み嫌っていた赤い菓子と柘榴。
あれ以来、アズールは自分から赤色の木の実や果物には近寄らないはず。
周囲には意地で赤い食べ物を並べさせても、本人は決して口にしない。それなのに、彼はエメの好物である柘榴を、汚れにまみれながらここまで運んできた。
冬至の夜、彼女を蹂躙した理不尽なまでの傲慢さ。
そして、事後に突きつけられた避妊の薬草茶。アズールの胸の内にあったのは、罪悪感なのか、あるいは歪んだ所有欲なのか。
「……話をしたいの?」
エメの静かな問いかけに、アズールは深く息を吐いた。
「ああ。ひとつ、頼みがある」
「ひとつ!? あなた、今まで何個も私に頼んできたか自覚はあるの?」
湖のような瞳が、怒りで爛々と燃え上がった。
アズールは、自分が開幕させたこの血みどろの劇の主役に対して、初めて言葉を失う。
権力と支配者の傲慢さで、ねじ伏せてきた相手に対し、いま、彼は初めて頭を下げようとしていた。
「わかってはいる。だが……頼む」
「説明して。じゃなきゃ嫌。
これ以上、あなたの勝手な筋書きに付き合うのは御免よ。
こんな状況、許せるわけないでしょう。
地獄を共に生き抜くパートナーとして、私を求めたんでしょう?」
エメロードのあまりに苛烈で、真っ直ぐな瞳。
アズールはその気迫に押され、しばらく沈黙した後、ゆっくりと重い口を開いた。
後宮に蔓延る毒の影。
ダーリャの娘を襲った高熱。
何者が、何の目的でこの蜘蛛の巣を紡いでいるのか。
そして、エメを寵愛の対象として祭り上げ、後宮の掃除に利用しようとした自身の狡猾な計画を、すべて告白した。
アズールはエメの反応を待った。
冷たい拒絶か、あるいは侮蔑か。しかし、エメがゆっくりと落とした言葉は、アズールの予想を遥かに超えていた。
「……アズール。じゃあ、あの冬至の夜は、なに?」
しんとした地下の空間に、彼女の震えるような短い問いかけだけが響いた。
アズールはラピスラズリの瞳を見開き、言葉を失う。
それは、計画にも目的にも含まれていなかったことだったから。
「私は……一体、何回『なぜ』と問い続けてきたのかしら」
エメの呟きは、酸と薬品の臭いが染み付いた地下の研究室に、静かに溶け出した。
連れ去られてから、この場所に来るまでのすべての理不尽。
アズールという男の身勝手な振る舞い。
エメはもう、混乱の中に留まることはしなかった。
エメラルド色の瞳には、すべてを暴き出そうとする冷静な光が宿っている。
もう、何も知らないままではいたくない。
アズールがその冷酷で端正な唇をわずかに震わせるのを、彼女は一瞬も見逃さず、ただ静かに答えを待った。
地下室の薄暗い灯りが、アズールの顔に深い陰影を落としていた。
整った造形は、感情が欠落しているように見える。
しかし今、その仮面が内側から崩れようとしているのを彼女は見て取った。
アズールの頭の中で、警鐘が鳴り響いていた。
(なぜだと……なぜだろう。
それが俺自身の喉元を突き刺す問いだ。俺こそが、その答えを知りたいのだ)
普段のアズールならば、宮廷の均衡が崩れ、敵が蠢くこのタイミングで、エメを抱くことの危険性など、誰よりも理解しているはずだった。
だが、あの夜から何かが決定的に狂っていた。
忌まわしき己の誕生の夜。
冬至の前夜に泥酔し、意識の混濁の中で無意識に足が向いたのは、他ならぬ彼女の離宮だった。
記憶の底には、彼女が歌っていた故郷ミリアムの哀愁を帯びた旋律が、今も焼印のように残っている。
『祝ってはいけないの?』
そう囁いたエメの、あまりにも無垢な問いかけ。背中を撫で下ろす、火傷しそうなほど優しい手のひらの感触。
涙を拭った唇の、あまりに柔らかい温度。
夢か現か曖昧なはずのその記憶だけが、なぜか現実よりも鮮明に、アズールの乾ききった魂を蝕んでいた。
エメの問いに答えようと、彼の喉が上下する。かつて戦場で死神と恐れられ、数多の敵の命を刈り取ってきた男が、目の前の少女の視線一つで、これほどまでに脆く崩れ去る。
「……俺は……俺は、お前が……」
それは擦れた、湿り気を帯びた低い声だった。まるで呼吸を忘れた者の断末魔のように、その言葉は重く、しかしあまりにも小さく、埃の舞う空気の中に消えそうになった。
「私が? 何なの、アズール」
エメの声は、どこまでも冷静だった。
その澄んだ湖水のような瞳が、真実を求めてアズールの瞳の奥深くを射抜く。
逃げ場はどこにもなかった。権力も、冷徹な仮面も、ここでは何の盾にもならない。
アズールは、死刑台に向かう罪人のような心持ちで、観念したようにエメを見つめ返した。
これまで何千、何万もの言葉を紡ぎ、人々を操ってきた彼が、たった一つの、ありふれた言葉を絞り出すために、これほどの苦渋を味わうとは。
「……好き、なのかもしれない」
その言葉は、ファールスの世継ぎとして、また戦場の死神として生きてきた彼の人生で、初めて吐き出された真実だった。
豪華絢爛な玉座の上でも、戦場を統べる軍議の席でもない。
薬瓶と薬草、古びた紙の匂いが充満する、殺風景な地下室で。
豆鉄砲を食らった鳩のような顔で、こちらを見つめる不思議な少女を前にして。
自らの人生を狂わせた感情の正体を、彼はあまりにも拙く、掻き消えてしまいそうな小さな声で告げた。
その瞬間、後宮という巨大な檻の中で、計算高いアズールの盤面が、決定的な音を立てて崩れ去った。




