後宮編 第24章:毒の囁きと歪む盤面
後宮という名の巨大な箱庭は、澱んだ気配に覆われていた。
第二妃ダーリャの娘が謎の高熱に倒れたのは、冬至から幾日も経たぬ頃のことだった。
子供の頬は不自然なほど赤く染まり、夜な夜なうわごとで泣き叫ぶ。
半狂乱になったダーリャは、娘の苦しみを見て、その怒りの矛先を、かつてないほど強烈にエメへと向けた。
『あのミリアム人の女が呪っているのよ!毒草を使って、邪魔になる娘を消そうとしている!』
ダーリャは蟄居の身ながら、正妃シファ、第三妃ミリファ、そしてあらゆる妃や自身の生家へ向けて、その妄想と怨嗟を書き殴った手紙を撒き散らした。
後宮に渦巻く不穏な噂は、瞬く間に蔓延していく。
正妃シファは、わが子ジャミールを乳母の腕の中に預け、深く溜息をついた。
かつてアズールとの間に授かった二人の息子の命を奪われた彼女にとって、この不穏な空気は耐え難いものだった。
居室を訪れたアズールを、シファは静かに、しかし決然とした眼差しで見つめる。
「殿下。
私は後宮の女主人として、どうすべきか初めて戸惑っております」
シファは言葉を継ぐ。
わが子ジャミールを守ること、それが何よりも第一であると。
しかし、後宮の主人として、あなたの正妻として、この状況をただ放置するのはあまりではないかと、絞り出すように訴えた。
アズールは銀の盃に注がれた黄金色の葡萄酒を静かにあおり、羊肉を口に運ぶ。
その所作は優雅で、かつ感情の機微をあまり感じさせない。
ダーリャが産んだ、丸みのある愛らしい娘の顔がアズールの脳裏をよぎる。……可愛い盛りの娘だった。
ダーリャ妃を宥める為もあり、何度か見舞いに訪れ、可能な限り滞在し声を掛けたが。
宮殿のお抱え医師らも首を傾げ黙り込む体たらくに、ヒステリックに叫ぶダーリャ妃と、泣くばかりの女官に嫌気がさしたものだ。
(だが、あの小さな娘が苦しむ様は…見るに耐えない…)
「……もし、毒であるなら、エメロードに解析と解毒を頼もう。
ダーリャが納得するかは分からんがな」
冷たく、低い声。
アズールの顔には表面上は、愛着も慈悲も、あるいは怒りさえも欠落していた。
彼の思考いま、この蜘蛛の巣の中心で、誰が糸を紡ぎ、誰が毒を盛っているのか――その真犯人への追及だけに向けられていた。
一方、その頃。
第三妃ミリファの居室では、異様な光景が繰り広げられていた。
かつて寵姫としてアズールの傍らにあった南国の姫は、美しくグラマラスな肢体を絹の褥に投げ出し、手元で蝶の羽を一枚、また一枚と、ゆっくりと千切っていた。
「ねえ? アズールさまは、まだかしら?」
甘美な愛の歌を口ずさみながら、羽を散らす指先。
その異様な光景に、侍女たちは恐怖で顔を見合わせるしかなかった。
ミリファの寵姫としての座は、今や離宮のエメロードに奪われ、さらに王都の有力な家々からも新しい妃たちが次々と後宮へ上がっている。
先日のクーデターで、彼女の唯一の後ろ盾であった兄王は処刑された。
アズールの冷酷な切り捨てを目の当たりにした侍女たちの心は、暗澹たる絶望に沈んでいた。
だが、ミリファだけは違った。
彼女は千切った羽の残骸を微笑みながら見つめ、濁った虚ろな瞳を窓の外へ向ける。
「だって、愛してるって言ってくださったのよ?
そう、きっと…ご多忙なのね。
わかってるわ…ミリファは他の妃たちとは違うから、いい子だから、ちゃんと待てるのよ?
ふふふ…ねえ、香油と夜着を新しくして。
あの方がいらしたら時に、たっぷりと癒やして差し上げたいの。」
夢見るように中空を凝視し、歌うように呟く南国の姫君に、付き従う女たちが顔を伏せる。
皆、わかっていた。
アズールがミリファを以前のように寵愛し、頻繁にこの部屋に訪れることは、もう無いのだと。




