後宮編 第20章:契約妃の終わり
冬至の祭りを一週間後に控えた夜、離宮を包む空気は他の区画とは決定的に異なっていた。
アズールの執務室から続く回廊を抜けるたび、彼の理性を縛る枷が、まるで熱に炙られる氷のように音を立てて溶けていく。
ここ数日、アズールは自らに言い聞かせていた。
……絶対に、エメロードに触れてはならない。
あの無防備で、あまりに純粋な娘に触れれば、薄氷の上に立つ自分の正気が、一気に水底へ沈んでしまうことを本能が理解していたからだ。
しかし、一週間という空白期間がもたらしたふたりの蜜月が終わった。
という宮廷内の噂は、支配者として看過できないノイズとなり、彼を再び離宮へと突き動かした。
扉を開け放った瞬間、アズールは立ち尽くした。
「……妃の部屋、ではないな。これは……」
言葉が喉の奥で澱む。
かつては整然としていた豪奢な空間は、今やエメという一個のコントロール不能な生命に、これでもかと、塗り替えられていた。
壁一面に留められた色とりどりの虫の標本が、月光を反射して怪しく光る。
床に散乱するハーブの束が放つ、青臭くも湿った香りが、アズールの肺を満たしていく。
大図書室から持ち出された専門書が、まるで城壁のようにあちこちに高く積み上げられ、その無秩序な混沌こそが、他者の侵入を拒むエメロードの聖域であることを、実に雄弁に物語っていた。
他の妃たちの部屋が、香油と媚薬の匂いに満ちた煌びやかな宝石箱であるならば、ここはエメの吐息と匂いだけで構成された、獣の巣のような場所だ。
そのあまりの濃厚さに、アズールは一瞬、自分この部屋に訪れた理由すら、忘却しかけた。
「あれ? アズール?」
長椅子に寝そべっていた影が、音もなく立ち上がる。
月の光を浴びて振り返るエメの姿は、この世の者とは思えないほど神秘的だった。
迷いのない足取りで近づいてくると、当然のようにアズールの前に立ち、無邪気に堂々と彼を見上げる。
アズールは考えるより先に、その細い肩を抱きしめていた。
全身を駆け巡る電流のような昂り。
抱きしめた瞬間に襲いかかるのは、甘い恍惚などではない。
肺を圧迫し、心臓を鈍器で打ち鳴らされるような、鋭い苦悶だ。
「おまえ……俺が本当の妃になれと言ったら、どうする」
それは、計画の遂行に必要な問いではなかった。
もっと深く、暗い独占欲が、制御を失って漏れ出した言葉だった。
アズールの腕に力がこもる。
エメの華奢な骨格が、自分の中に完全に収まっていく感覚に、アズールは眩暈すら覚えた。
「え? それって……えと……」
腕の中のエメは、唐突な問いに目を白黒させ、たちまち耳の先まで真っ赤に染め上げた。
見上げるその瞳には、打算など微塵もなく、ただ純粋な戸惑いが揺れている。
アズールは、自分が口走った言葉のあまりの重さに我に返った。
(――今のは、何を言った。俺は、何をしようとしている?)
「いや、いい……忘れろ」
冷淡な声音で切り捨て、アズールは荒々しく彼を突き放した。
心臓はまだ、さっきの数倍の速度で警鐘を鳴らし続けている。
逃げ場を求めるように、アズールは虚勢を張って事務的な話題を投げた。
「冬至の祭りの衣装を合わせる。希望があればイザベルに言え」
「んと、衣装よりお菓子と吟遊詩人の歌のほうが楽しみかなぁ……」
真っ赤な顔のまま、エメは屈託なく微笑んだ。
祭りの喧騒、冷たい冬の夜、そしてその中心で燃え上がる、決して消えることのない情熱。
アズールは、エメの背後に広がる専門書の山を見つめながら、理解していた。
この冬至の夜、自分は計画のために冷酷に笑う支配者ではなく、ただ一人の男として、この無垢な存在を食らい尽くすことになるのだと。
月の光が、二人の影を長く、一つに重なり合うように引き伸ばしていた。




