後宮編 第19章:覇王は、胸の痛みを毒だと疑う
離宮を出たアズールは、自身の執務室へ戻るや否や、書類の山を前にして完全に硬直していた。
心臓がうるさい。
まるで戦場の太鼓が胸の内側で狂ったように鳴り響いている。
戦場で数多の死線を越え、喉元に刃を突きつけられても瞬き一つしなかった自分が、ただ一人の娘の残香を思い出すだけで、手先が微かに震えるのだ。
「……間違いなく、毒だ」
アズールは、低い、絞り出すような声で結論づけた。
「何者かが、俺に得体の知れない毒を盛ったに違いない。
体温が異常に高く、呼吸が乱れ、思考が混濁する。
……エメロードの顔を見るたび、心臓が握り潰されるように痛むのだ」
重苦しい空気の中、側近のバルタザールは困惑を隠しきれずにいた。
彼には、主がただ「恋」という人生初の病に罹患しているようにしか見えない。
しかし、ファールスの死神として畏怖されるアズールに向かって「あはは、それは恋ですよ、殿下」などと言えるはずもなかった。
「……すぐに侍医を呼べ。
そして、警備を倍にしろ。
何者かが俺を操ろうと、媚薬か何かを仕込んでいる可能性がある」
バルタザールが苦笑いし、冷や汗を流しながら下がると、アズールは再び唸り声を上げた。
エメロードの、あの無邪気な瞳。
昨夜、唇を重ねた時に感じた、あのありえないほど柔らかい温もり。
(――くそ、考えれば考えるほど、胸の奥が焼き切れるように熱い。)
その時、執務室の重厚な扉が、ノックもなしに勢いよく開かれた。
「アズール! 今日は機嫌が良いかと思ってやってきたの!」
ひらりと軽やかな足取りで現れたのはエメロードだ。
しかし、彼女の背後からは、息を切らしたイザベルと、顔面蒼白の宦官たちが「エメロード様! 走ってはなりませぬ!」「殿下の許可を待つようにとあれほど……!」と必死の形相でなだれ込んでくる。
エメロードはそんな騒ぎを意に介さず、慌てふためく護衛たちを尻目に、アズールの青ざめた顔を覗き込んだ。
「……熱い。やっぱり風邪ね? 昨夜、離宮の窓を開けすぎたのがいけなかったのかしら」
「っ、触るな!」
アズールは跳ね上がるように後ずさった。
彼女が触れるたび、毒の症状が劇的に悪化する。
エメロードの香りが、彼の理性を容赦なく焼き尽くしていく。
「そんなに怒らないでよ。心配しているだけなのに……」
エメロードはきょとんと首をかしげると、カバンから小さな小瓶を取り出した。
背後の護衛たちは、その瓶が怪しいものかと身構え、あわや武器に手をかけんとする一触即発の空気だ。
「これ、気つけ薬よ。少し強烈だけど、飲む?」
アズールは、その小瓶を見つめた。エメロードが自分のために作ってくれたものだろうか。
彼女の指先が触れたガラス瓶が、戦場のどんな物よりも恐ろしく、そしてこの上なく魅惑的だ。
「……お前が作ったのか」
「ええ。昨夜、あまりに苦しそうだったから。
あなたでも、そんな風に追い詰められた顔をするのね。
ほんとに、不思議な人」
エメロードは悪びれもせず、アズールのすぐ側まで歩み寄る。
護衛たちが「エメロード様、執務中です。お下がりください!」と青ざめて騒ぐ中、彼女は無邪気にアズールの側に寄り添った。
彼女の清廉な薬草な香りが漂う。
アズールは、自分が執務室にいる事を忘れそうになった。
今すぐ彼女を抱きすくめ、誰も踏み込めない深淵まで連れ去り、誰の目にも触れさせたくないという、おぞましくも甘美な欲望が喉までせり上がる。
「……帰れ」
精一杯の威厳を込めたつもりの声は、驚くほど震えていた。
「はーい、帰ればいいのね。アズール、これ、飲んでおいてね」
エメロードはテーブルに薬を置くと、ふわりと笑って扉の方へ歩き出した。
去り際に振り返り、彼女は悪戯っぽく微笑む。
「そうそう。
昨日の朝のことだけど、おねしょの件……あれは、あなたが酔いすぎていたから夢だと思って忘れてあげるから、安心して?」
「……二度と、その口を開くな」
彼女が護衛たちを従えて去った後、アズールは机に伏せ、こめかみを押さえた。
毒だ……
これほどまでに理性を奪い、自尊心を粉砕し、己の支配下にあるはずの女に頭が上がらなくなるような毒が、この世に存在するとは。
彼はテーブルの上の薬瓶を手に取った。
エメロードの指の熱が残っている。
アズールは、その小瓶を口元に運び、自ら進んで「その毒」を飲み干した。
「……とんでもない、猛毒だ…」
空になった瓶を握りしめ、アズールは満足げに、そして何より狂おしげに、もう一度だけエメロードの去った扉を睨んだ。




