後宮編 第18章:冬至の夜の接吻
寒期の訪れまでに、後宮ではエメロードにあからさま嫌がらせをした妃や命を脅かそうとした者、更には利用価値が無くなった妃や妾をアズールは容赦なく処分していった。
12月の冷気が、イスファーンの宮殿を重く覆っていた。
そして、1年で最も夜が長い冬至が近づき、街は生命や太陽の象徴である「赤」――スイカの鮮やかな果肉、ザクロの弾けるようなルビー色、ナッツの香ばしい彩りに満たされていた。
しかし、エメロードにとっての12月は、窒息寸前の季節であった。
完成したばかりの離宮は、あまりに豪華で、あまりに窮屈だった。
あらゆる贅沢が彼女の周りに配置され、まるで美しい標本として保存されているかのような錯覚に陥る。
彼女が本来の自分でいられるのは、研究室で毒の解析に没頭する時間だけだった。
冬至を2週間後に控えた、凍てつくような夜更けのこと。
エメロードの離宮の寝所に、その足音が響いた。
離宮完成の夜、以来、多忙すぎて、一度も訪れることのなかったアズールが、そこに立っていた。
「……アズール?」
エメロードは夢うつつのまま、半ば開いた瞳で彼を見つめた。
近づいてくる彼の体からは、いつもはけして纏わない強い酒の匂いが漂っている。
アズールは無言のまま、寝台の縁に腰を下ろすと、彼女のプラチナブロンドを細い指で梳き、額から頬へとゆっくりと冷たい指を這わせた。
その仕草は、いつもの支配的なそれとは異なり、どこか壊れ物を扱うような危うさを孕んでいた。
「……俺を産まなければ、生きていたのだ。オレリア母上は……父の寵愛を受けねば……いや、生まれた子がせめて王女ならば……」
低く、地の底から響くような独白。
アズールはエメロードを見ているようで、その瞳は遥か彼方の闇を見つめていた。
その言葉の端々に滲む激しい自己否定と、母への深い追慕。
エメロードは、初めて見る彼の脆さに息を呑んだ。
「アズール……?」
エメロードが身じろぎをして身体を起こすと、アズールは言葉を止めた。
灯火の揺らぎの中で浮かび上がった彼の横顔は、いつも以上に鋭く、そして狂おしいほどに孤独だった。
彼女がその名を呼び、指を伸ばそうとした瞬間――アズールはまるで溺れかけている者が救いを求めるかのように、エメロードの身体を強引に引き寄せ、抱きしめた。
「っ、アズール、あなたお酒くさい…!」
その抱擁は、いつもの支配的な熱さとは違っていた。何かを埋め合わせようとするかのような、悲痛なほどの力の強さだった。
「12月は……一年で一番嫌いな季節だ。どこもかしこも、忌々しい赤に溢れる」
アズールの声は、胸元に沈み込むようにして響く。
「それよりなにより、一番忌まわしいのは……俺がこの世に生まれた、今日という日だ」
エメロードは、その言葉の意味を理解しようと首を傾げた。
今日が彼の誕生日だというのか。
こんなにも強大な権力を持ち、ファールスの世継ぎたる男が、なぜこれほどまでに自身の生を呪い、孤独を抱えているのか。
「おめでとう、と言ったらだめなの……?」
彼女の震える問いかけに、沈黙が支配した。
どれほどの時間が過ぎたのか。アズールは、初めて聞くほど低く、震えた声で答えた。
「……だめだ」
その拒絶には、彼が長い年月をかけて育んできた深い自己嫌悪の根が見えた。
エメロードはそれ以上問うのをやめ、ただ彼の背中を優しく撫でた。
彼女は、ミリアムの古い民謡を口ずさみ始めた。
遠い故郷で、母が眠る前の幼子に聴かせたような、哀しくもどこか懐かしい旋律。
その声が離宮の冷たい空気を震わせると、アズールは驚いたように顔を上げ、ラピスラズリの瞳をエメラルドの瞳と交差させた。
エメは、彼が泣いているかなど尋ねなかった。
ただ、初めて自分から彼の唇に、慰めのように触れた。
重なる唇は、塩の味がした。
アズールの頬を伝い、彼女の肌を濡らす熱い滴。
エメロードはそれを拭うこともせず、彼の瞳の下に、額に、優しいキスを何度も落とした。
偽りの寵愛が支配していた後宮で、その夜だけは、二人の間に境界線は存在しなかった。
ただ二つの孤独な魂が、冬至の闇の中で互いを確かめ合うように寄り添う。
静寂は、夜の更けるままに深まっていった。
アズールの腕の中で、エメロードは彼が抱える深い闇を少しだけ共有し、そしてアズールは、初めて彼女という存在を、道具ではなく救いとしてその胸に刻み付けたのだった。
アズールの唇は、すがるようにエメロードのそれを求め、舌先が甘美な逃げ場を求めて絡みついた。
かつてないほど切迫したその衝動に、エメロードは息を呑み、己の運命を預けるかのように目を閉じて指を彼の背中へと這わせた。
しかし、首筋に刻まれた熱い吐息と、かすかに震える腕の強張りが、ふと凪いだ。
(……ん?)
幾分かの時間が過ぎたはずなのに、唇の重なりは熱を失い、エメロードの抱いた腕からは硬質な緊張が抜けていく。
恐る恐る目を開けたエメロードは、離宮の薄暗い寝所で、自分の胸元に顔を埋めたまま、規則的で深長な寝息を立てるアズールの姿に、思わず呆然と瞳を見開いた。
この鉄のような意志を持つ男が、自分を抱きしめたまま眠りに落ちるなど。
「……ある?寝ちゃった…」
脱力した溜息が零れる。
その安らかな寝顔は、昨日まで見ていた冷徹な面影を打ち消すほどに、無防備でどこか少年のような危うさを秘めていた。
その頃、アズールの脳内では、記憶の蓋が音を立てて崩れ去っていた。
七つの冬の誕生日。
無邪気な祝いの温かさ。
しかし、父の来訪を待ち侘びて曇る母・オレリアの濃青の瞳。
芍薬の香りと、故郷ミリアムの民謡を口ずさむ優しく甘い声。
そして、冬至の日の悪夢が奔流となって押し寄せる。
正妃の親族が突きつけた毒入りの菓子。
アズールを守ろうと、それを口にしてしまう母。
鮮血のように床に飛び散ったザクロの粒と、毒に侵され、みるみる冷たくなっていく白い肌。見開かれたまま動かなくなった青い瞳と、自身の名を呼びながら最期に震えた指先。
『……母上……!』
夢の中で何度も繰り返した絶叫とともに、アズールは現実の温もりを掴んだ。
ぼんやりと目を開け、視界に入ったエメロードの無垢な寝顔に、彼は全身の血が逆流するような感覚を覚える。
昨夜の記憶の断片が、酒の匂いと共に蘇る。
バカな、自分は何をしているのだ。この豪華な離宮で、自分は何を求めていたのだ。
「アズール? おはよう」
寝起き特有の掠れた愛らしい声。
エメロードが身じろぎをして目を覚ます気配を感じた瞬間、アズールは衝動的に布団を剥ぎ取り、彼女の下半身や乱れたシーツを必死に調べ始めた。
「っ、な、なにしてるの!?」
あまりの事態に思考が追いつかず、エメロードは全身を硬直させた。
アズールの表情は見たこともないほどに蒼白で、何かを見落とすまいとする焦燥が、この離宮の贅を尽くした寝台の上で、彼の精悍な顔立ちを子供のように歪ませている。
(……まだ、酔っているの? それとも、どうかしてしまったの?)
エメロードは混乱の極致で、必死に彼の腕を払おうとした。だが、その指先が触れたアズールの肩が、今までにないほど激しく震えているのを感じて動きを止める。
覇王として君臨する彼の顔には、途方もない途方と、死の淵から生還したような深い安堵が入り混じっていた。
「……何ひとつ、傷つけていない。俺は、何も……」
「何もって何よ! この歳で、そんな……っ! こんな歳でおねしょなんかするわけないでしょうが!」
エメロードの憤怒の叫びが、完成したばかりの静かな離宮に響く。
あまりに突拍子もない言葉に、アズールはフリーズした。
脳内を埋め尽くしていた極限の緊張が、一瞬にして砕け散る。
は? という間の抜けた声を漏らした彼は、寝起きの、まだ怒りで顔を紅潮させた彼女を凝視した。理解が追いつかない。
この極限状態の彼を前にして、口から出た言葉がそれか、と。
アズールは耐えきれず、低い笑い声を漏らした。それは、喉の奥から絞り出された、限界を超えた掠れ声だった。
「違う、お前を……傷つけるのが怖かったんだ」
その言葉の続きが、喉に詰まる。
俺はお前を「掃除」のための駒として利用した。このファールスの泥沼へ、権力争いの最前線へと引き摺り込んだのは、他でもない自分だ。
それなのに、お前の中に自分の種を残せば、母上と同じ命の連鎖に巻き込んでしまうと、恐怖に震えていた。
エメロードの怒りも忘れて、アズールは沈黙した。




