後宮編 第17章:台座の上の宝石
イスファーンの後宮において、季節は確実に終焉へと向かっていた。
11月終わりのの乾いた風が、石造りの回廊を駆け抜け、衣擦れの音を運んでくる。
正妃シファの住まいは、常に柔らかな気品ある静けさに包まれていた。
アズールは正妃であり、今や後宮の舵取りという重責を担うシファのもとへ、あえて頻繁に足を運んでいた。
それは彼なりの配慮なのか、それとも彼女に「嵐が過ぎ去るまで沈黙を守れ」という無言の圧力を加えるためなのか。
シファは、アズールの瞳の奥に宿る冷徹な覇気を感じ取り、ただ穏やかに茶を供した。
言葉は交わされずとも、二人の間には長く深い共犯の歴史が流れている。
シファの部屋を後にしたアズールは、帰路の途中で立ち止まった。
後宮の庭園の一角、そこには小さな美しい離宮が、いまや完成の時を迎えようとしている。
夕陽を浴びて淡く輝くその壁面は、まるで磨き上げられた大理石の台座のようだ。
「もうすぐ、あの台座に美しいエメラルドが嵌る」
アズールは低く独りごちた。
その口元は厳しく引結ばれていた。
(あの娘を囲い込み利用する。
だが、けして傷がつかないようにだ。
今の俺の力ならば、どちらも可能だろう)
老王の退位が迫る今、次代の王として更に盤石な布陣を敷くことが求められる。
アズールは、エメロードという眩い輝きをあえて、表舞台の最も目立つ台座に飾り、その圧倒的な寵愛の光で妃たちの嫉妬を誘い出すつもりだった。
光が強ければ強いほど、影は濃くなる。
その影の中で自滅していく者たちを、アズールはひたすらに選別していく。
それは血を流さない、極めて知的な粛清であった。
一方、その「台座」に飾られる運命にある宝石――エメロードは、自分が利用されているなど、知る由もなかった。
離宮の建設を横目に、彼女は今日も重苦しい気分で朝を迎えていた。
昼間は宮殿に近い研究室に籠もり、アズールの母を死に追いやった毒の解析に心血を注ぐ。
だが、息抜きのつもりで庭園へ出ようとすれば、即座にイザベルと数人の宦官たちが影のように付き従った。
「エメロード様、風が冷えます。羽織り物をお持ちしましょうか」
かつてミリアムの地から連れてこられたイザベルの眼差しは、慈愛に満ちてはいるが、同時にアズールへの絶対的な忠誠心は揺らがない。
「……ねえ、イザベル。どうして、私には自由がないの?」
エメロードの問いかけに、イザベルはただ困ったように微笑むだけだった。
「殿下のご懸念でございます。
あのような不穏な事件が後宮で続く中、あなた様をお守りすること。
この乳母に頼む、と殿下は仰っておりました」
(アズールの……頼み?)
その言葉が、エメロードの胸を締め付けた。
守られているのではない。
監視されている、の間違いではないか。
夜になれば、アズールは獣のような情熱で彼女を弄び、理知的なはずの研究の成果を甘い快楽で塗りつぶし、あろうことか偽りの寵愛を周囲に見せつける。
なぜ、そんなことをするのか。
アズールは愛しているという言葉を一度も口にしない。
ただ大した説明もなく、実に傲慢にそして、無遠慮に身体に触れ、まるで所有物のように扱う。
彼の考えが全く理解できないまま、エメロードは今日もまた、自分の存在が誰かの思惑の一部であるという居心地の悪さと、静かな怒りに身を震わせていた。
本人が無自覚であればあるほど、その放つ輝きは毒のように鋭く、周囲の者たちの破滅を加速させていく。
エメロードは、気づいていない。
完成を待つ華麗な離宮は、エメロードが永遠に閉じ込められる檻であると同時に、そこに引き寄せられた者たちが断末魔を上げるための処刑場であることを。
アズールの計算は順調に滑り出し、彼女は何も知らぬまま、その美しくも危険な輝きを、後宮という暗闇の中で放ち続けていた。




