後宮編 第16章:箱庭を掃除する嵐
執務室の窓からは、完成を待つ離宮の白い骨組みが冷ややかに見下ろせる。
正妃シファは、最高級の茶葉を淹れた黄金色の茶器をアズールの手元へ静かに差し出した。
華美な陶器の触れ合う音だけが、広大な部屋に響く。
シファの瞳は、夫を見据えていた。かつて二人の間に三人の子を授かり、共にイスファーンの繁栄を支えてきたという自負と敬意。
しかし、今の夫に向けられたその冷静な声音には、隠しきれない警戒が混じっていた。
「アズール様。後宮の均衡が、今まさに崩れようとしています。
妃たちは皆、エメロードを毒を操る魔女だと信じ込み、互いに殺し合うような疑心暗鬼に陥っております。……この状況を、どのようにお考えでしょうか?」
アズールは、ラピスラズリの瞳でシファを静かに見つめた。
その視線は、妻に対する敬愛の念を含みながらも、あまりに冷酷で、底知れない深淵を覗き込むような色を帯びていた。
「……とうに把握済みだ」
短い言葉。
シファの黒い瞳が小さく揺らぐ。
夫は知っていたのだ。
後宮で起きている死の数々も、妃たちの荒れ狂う憎悪も…。
すべてが彼の手のひらの上で、起きている出来事なのだ。
「ならば、ならばなぜ……。
このままでは、血で後宮が汚れます。あの娘の身を守るためとおっしゃりながら、なぜ火種を放置されるのですか」
アズールは答えず、ただ静かに茶を嗜んだ。
その横顔を眺めながら、シファは悟った。
夫はただ愛に溺れているのではない。
彼はエメロードに深く執着しながらも、同時に冷徹な主人として、この後宮という盤面を動かしている。
シファは深く溜息を吐き、静かに部屋を辞した。
その背中からは、夫という男のあまりの残酷さに打ちのめされた、深い孤独が漂っていた。
シファが去った後、アズールは独り、沈黙する執務室に残された。
彼は窓辺に立ち、乾いた風が吹き抜ける宮殿を見下ろす。ふと、漏れたのは自嘲の笑みであった。
「地獄のつづきか……」
エメロードの問いかけが、脳裏で反響する。
あの時、絶望の中で彼を睨みつけた彼女。
その無垢な研究おたくの女を、今、彼は完璧な鳥籠へと封じ込めようとしている。
アズールにとって、この状況は苦肉の策であったはずだ。
だが、同時にそれは、彼がここしばらく画策していた後宮の浄化、を成し遂げるための絶好の機会でもあった。
世継ぎの地位を盤石なものにした今、もはや利益の無い妃や、政敵と結託する疑いがある妃たちを、表立って排除することは難しい。
ならば、女神を利用すればいい。
彼女を祭り上げ、嫉妬に駆られた妃たちが自ら彼女を陥れようと動けば――その時にこそ、彼はイスファーンの法を執行する権利を得る。
妃たちの自滅を待ち、後宮の新陳代謝を促す。
それは極めて合理的で、血も流れない、美しい計画だった。
しかし、わずかな痛みが彼の胸を刺した。
自分が利用しようとしているその女神が、夜の寝室で無防備に震え、自分を信じて研究の話を語り続けることへの罪悪感。
「……汚れたのは、俺の方か」
アズールは愛おしそうに、あの日のエメロードの指先から付着した泥を、思い出し窓ガラスに映る己の頬を指でなぞった。
後宮を焼き尽くすまで、この嵐は止まない。
風が吹き抜け、彼の独り言を闇へと消し去った。
後宮浄化計画発動




