後宮編 第13章:籠の中の女神
カーテンの隙間から差し込む朝の光が、寝室にたゆたう濃厚な空気を黄金色に染め上げていた。
エメロードは、まるで夢の中にいるような心地で意識を取り戻した。
慣れないふかふかした布団、高貴なミルラ香。
全身にまとわりつく気だるさ、そして肌に残る微かな熱と違和感。
自分がどこにいるのか、なぜアズールの腕の中にいるのかさえ、頭の中では霧が晴れるように整理がつかない。
「目が覚めたか」
耳元で響いた低い声に、エメロードはびくりと肩を震わせた。
見上げれば、そこには昨日と同じ、あるいは昨日よりもずっと甘く、そして深い濃青を湛えたアズールの瞳があった。
アズールは、慈しむような手つきでエメロードのプラチナブロンドを指先で梳いている。
女官により、寝室に運ばれてきた朝食から葡萄を一粒摘み上げると、彼はそれをエメロードの唇へと静かに運んだ。
「……あ、あの、アズール?」
空腹には逆らえず、ぱくぱく、と葡萄を口に入れ咀嚼する。
「ほら、口を開けろ。喉も渇いているだろう」
戸惑いながらも素直に口を開くと、冷ややかな山羊ミルクが滑り込んでくる。
甘美な仕草とは裏腹に、その視線は一瞬の鋭さを帯びていた。
扉の近くで控える女官たちは、この信じがたい光景に顔を赤らめ、深々と頭を垂れて視線を逸らしている。
廊下からは、何事かと耳をそばだてる者たちのどよめきが、波紋のように広がっていくのが聞こえた。
『殿下が……アズール様が、一晩でこれほどまでに溺愛されるなんて!
みた?あの白い肌中につけらた赤い跡を?
ミリファ妃の夜伽ですら、あそこまで情熱的な様子はなかったわよね?』
『女神の魔力なのだろうか、とにかくミリファ妃の時代は終わったわね……』
そんな囁きが聞こえる中、エメロードは自分の身体に目を落とした。
白い肌に散らばる、あまりに鮮烈な紅い花びらの跡。
その一つ一つが、羞恥と静かな怒りを呼び起こす。
「……なにが、おきたの? わたし、昨日の祭りのあとから、なにも……」
潤んだエメラルドの瞳で訴える彼女に、アズールはふっと小さく笑みをこぼした。
そして、その頬を優しく撫でる。
「お前を守るために、仕方なかったんだ」
「守る……?」
「この場所には、お前を毒で殺そうとする奴らがうごめいている。
だから、俺が証明してやったんだ。
お前は俺の寵愛を受ける、誰も指一本触れさせない存在だと」
アズールは淡々と言った。
まるで、大切な宝物を鍵付きの箱に仕舞う理由を説明するように。
エメロードは混乱した頭で、必死に自分の正しい居場所を求めた。
「部屋に……戻りたいのだけど。研究がまだ……」
その言葉を聞いた瞬間、アズールは葡萄を彼女の唇に押し入れ、遮るように告げた。
「あの後宮のボロ部屋には、もう用はない」
拒絶を許さぬ響きだった。
アズールはそのまま告げる。
「お前の住まいは、後宮の庭園の中に設ける。
今から特別に豪華な離宮を造らせるからな。
完成までは、この宮殿に仮の部屋を与える」
「……はあ、離宮? でも、わたしは……」
「近いだろう?
地下の研究室へも。……ああ、忘れていないぞ。南の国へ逃がすという約束もな」
アズールはニヤリと唇の端を歪め、彼女の耳元で甘さを含んだ言葉を吐き出した。
「だが、研究が終わるまではここから一歩も出すわけにはいかない。
お前は今や、イスファーンで最も危険で、最も貴重な俺の寵姫なのだからな」
エメロードは呆然とした。
研究さえ終われば、息苦しい箱庭から南の国へ行ける――そう信じていた。
しかし、アズールの言葉の端々からは、彼女をただで、逃がす気など毛頭ないという執着が、滲み出ている。
彼女はまだ気づいていない。
無意識の執着により、自分を逃がそうとしない彼の手によって、すでにその運命が、永遠にこの宮殿の地下深くに塗り固められようとしていることに。
アズールは彼女の額に愛おしそうに口づけを落とすと、満足げに寝台から立ち上がった。




