後宮編 第11章:死神の揺り籠
祭りの喧騒が遠ざかるにつれ、王宮の回廊には夏の熱を帯びた夜風が吹き抜けていた。
月明かりが石畳を青白く照らし、篝火の影が揺らめく。
その中を、アズールはエメロードの手を引いて早足で突き進んでいた。
女神の装いを纏ったエメロードは、その優美な衣装の裾を翻しながら、彼の歩調に合わせて懸命に足を進めるしかない。
通り過ぎる女官や召使いたちは、畏怖と好奇、そして毒気を含んだ視線で二人を追った。
噂はまたたく間に王宮を駆け巡るだろう。
今宵、水の女神が世継ぎの君の寝室へ足を踏み入れたという事実は、もはや隠しようのない公然たる寵愛の証明であった。
重厚な扉が開き、アズールはエメロードを宮殿の自らの寝室へと、押し入れるように踏み込んだ。
室内には、微かに高貴な乳香とミルラ香油の香りが漂っている。
祭りの熱気から一転、静寂と圧迫感に満ちた密室。
アズールは扉を閉めると、そのままエメロードを振り返った。
月の光が、彼女のプラチナブロンドを銀色に染め上げている。
その絶世の美貌を間近で目にした瞬間、アズールは一瞬だけ息を呑んだ。
これまで数多の美女をその手に収めてきた彼でさえ、今の彼女が纏う神秘的なまでの冷たさと無垢さの融合には、理性を揺さぶられる。
「……今宵は、俺の部屋で過ごせ」
短く、しかし拒絶を許さぬ響きを込めて、アズールは命じた。
エメロードは、何が起きたのかを理解できずに固まった。
なぜ彼が自分を連れ出して、そしてなぜ彼と妃たちのための部屋である、この場所に呼ぶのか。
心臓が早鐘のように打ち、顔が熱くなる。
「ど、ど、どういう……意味? ここはダメだよ……私、帰らなきゃ!
まだ、ご飯も食べてないし、研究も残ってるし…」
問いかけるエメロードの頬は、流石に真っ赤に染まっていた。
そんな彼女の動揺を、アズールは少しだけ意地悪な、しかし隠しきれない熱を帯びた表情で見つめる。
彼は一歩踏み出し、彼女の逃げ場を塞ぐようにして、その耳元で低い声で囁いた。
「苦肉の策だと言ったろう?
俺の寵愛がいかに深いか、周囲に知らしめる必要がある」
「く、にく?何も話してくれないから、わかんないよ!」
その言葉の真意を問おうとするエメロードを抱きすくめ、アズールはそのまま彼女を王のための巨大なベッドへと押し倒した。
エメロードの湖水色の瞳が見開かれる。
ここは、毎夜、妃たちが愛を乞い、抱かれる場所だ。自分はこんな場所には居たくない。
そんなぼんやりとした不安が脳裏を過る。
エメロードは瞳を力任せに閉じ、体を硬くした。
その無防備で硬い身のこなしに、アズールは苦笑を浮かべる。
「……このベッドの上でこれほど身を硬くして目を閉じる女など、ファールスの世継ぎである俺の歴史を探しても、お前くらいなものだぞ」
アズールはどこか面白がるように興味深げに、彼女の顔を覗き込み、プラチナブロンドの髪を指で梳いた。彼の指先が、彼女の耳朶に触れる。
「……おいお前、"演技"はできるか?」
「へ?」
エメロードがゆっくりと目を開く。そこには困惑だけがあった。
アズールはさらに距離を詰め、彼女の耳朶に甘く息を吹きかける。
「ミリアムで一度揶揄った時は、随分と甘い声で鳴いたよな?……今夜からは、周囲に俺たちの愛の深さを信じ込ませるための、ちょっとした芝居をしてもらう」
燭台の灯りが、彼らの影を壁に引き伸ばす。
目の前には、精悍でいてどこか残酷な〝ファールスの死神〟の顔があった。
アズールのラピスラズリの瞳には、獰猛な光が宿っている。
エメロードの瞳に映るアズールの顔が、暗闇の中で歪む。
演技――それは彼女にとって未知の毒薬よりも遥かに理解しがたい、しかしこれからのイスファーンを生き抜くために避けては通れない、甘美な地獄の始まりであった。




