後宮編 第10章:祝祭の終焉
音楽は激しさを増し、ティールリャ祭りは最高潮に達していた。
舞台の上では水神の巫女を模した踊り子たちが回転を早め、会場を包む熱気は蒸すような暑さへと変わる。
だが、祭壇の特等席に座るエメロードの周囲だけは、狂気や嫉妬、冷ややかな殺気と、アズールから放たれる圧倒的な威圧感によって、異質なほど静まり返っていた。
アズールは、エメロードが無防備に菓子を詰め込む姿を横目で見ながら、喉の奥で小さく溜息をついた。
(……本当に、何をしに来たんだ。あの食い気は、せっかくの女神の威厳を台無しにしているというのに)
それでも、彼女が隣にいるという事実が、戦場のようなこの後宮で彼に言いようのない安らぎを与えていた。
それが同士という建前であるはずなのに、今の自分は彼女の肩に置いた指先から伝わる体温にさえ、理性を削り取られそうになっている。
その時、舞台の篝火が一度落ち、祭りの終わりを告げる〝水神の浄化〟の儀式が始まった。
会場の皆の気が逸れた、一瞬の隙。
第二妃ダーリャが側使えの女官に耳打ちし、女が獲物を狙う蛇のような動きで立ち上がった。
彼女の袖口には、皮膚を瞬時に腐らせる劇薬を仕込んだ針が隠されている。
(……あの美しい顔も、今日で終わりよ)
ダーリャの女官が、エメロードの背後へ忍び寄る。
イザベルがそれに気づき、身を翻して短刀を抜こうとした――が、その動きは早すぎた。
女官の針が、エメロードの柔らかな肌へと振り下ろされる。
だが、それよりも早く、アズールが動いた。
「――っ!」
鈍い音が響く。アズールは瞬時に立ち上がり、女官の腕を無造作に掴んでねじり上げた。
ぎゃっ!と、凄まじい悲鳴が祭りの喧騒を切り裂く。
アズールが女官を突き飛ばすと、その場は静まり返り、踊り子たちも音楽を止めて呆然と立ち尽くした。
「陛下……? なぜ、そのような……!」
ダーリャの叫びに対し、アズールは氷のような冷徹な瞳で彼女を見下ろした。
その手には、先ほどまで女官の袖に隠されていた毒針が握られている。
「……私の隣に座る者に刃を向けるとは。
ダーリャ!自らの女官の管理を怠るな、次は無いと思え。」
祭壇に緊張が走る。
シファは事の成り行きを静かに見守り、ただ冷ややかな溜息をついた。
今までは後宮の弱肉強食の理に無頓着だったアズールが、公衆の面前で寵妃の入れ替わりと、その保護を宣言していた。
その喧騒の中で、エメロードだけが手の中の蜜菓子を落とさぬよう、しか、と握りしめてきょとんとしていた。
「……あれ? 今、何かあったの?」
その間抜けとも取れる無邪気な声が、凍りついた会場に響く。
アズールは眩暈を覚えながらも、隣に座るこの無垢な女神の肩を強く抱き寄せた。
もはや隠す必要はない。
そう宣言するように、アズールはエメロードの額に、儀式を装った接吻を落とした。
「……祭りは終わりだ。エメロード、帰るぞ」
アズールは彼女の手を引き、騒然とする会場を背にして歩き出した。
後宮の闇に火種が灯った。
背後で引き立てられる女官の、絶望的な叫びが聞こえる中、2人は夜の闇へと消えていった。
祭りの終焉は、イスファーン後宮の血塗られた時代の始まりでもあった。
エメロードはいまだに、握られた手の熱の意味を理解できず、アズールの大きな手を見つめながら、小さく囁いた。
「……ねえ、アズール。お菓子しかまだ食べてないの。お肉かパンは無い?」
ファールスの死神、冷酷な世継ぎの君と呼ばれた彼が、初めて本気で笑ったのは、この救いようのないほどに美しく滑稽な夜のことだった。
獣…だもん…餌には弱い




