後宮編 第9章:イスファーンの至宝③
ティールリャ祭りの狂乱は、絶頂を迎えていた。
舞台では水神を招くための華麗な舞が繰り広げられ、黄金の紙吹雪が夜の庭園を幻想的に染め上げている。
だが、その華やかな祝祭の光景とは対照的に、祭壇の特等席には凍りつくような冷気が漂っていた。
エメロードは、アズールのすぐ右隣に座らされていた。
その背後には、影のように不動の気配を纏った老女官イザベルが控えている。
イザベルの眼光は鋭く、祭壇に近づこうとする影があれば、いつでもその首を刎ねるかのような厳格さでエメロードを守り抜いていた。
アズールは、集まった妃たち、貴族、そして政敵たちに見せつけるように、エメロードの肩に手を置いた。
その視線は熱を孕み、彼女の白い首筋や、サファイアの下で緩やかに揺れる鎖骨をなぞる。
それは、言葉以上に雄弁に寵愛を宣言する、無言の証明であった。
シファが、アズールの耳元へ顔を寄せた。
彼女の品格ある美貌には、後宮にはそぐわぬ無邪気なエメロードの様子を観察し、かすかな哀れみが浮かんでいる。
「……殿下が何故あの子を隠していたのか、少し理解できた気がしますわ。
この後宮で殿下のそば近くにいる事は、あのような子が背負うには、重すぎることですわ」
シファ妃特有の含みある物言いに、アズールは顔色一つ変えず、舞台の踊り子たちを見つめたまま、低く冷ややかな声で応じた。
「……どうすればよかったというのだ。
このままあの薄暗い部屋に隠していれば、いずれは誰かが毒を盛るか、刺客を送り込んでいたはずだ。
それならいっそ、俺の腕の中に囲い込み、誰の手も届かない場所へと引き上げることが、正解だろう?」
彼は常にエメロードを〝母を殺した毒の真相を探るための駒〟だと自分に言い聞かせていた。
だが、その肌に触れた時の感触や、自分を見上げる無垢な瞳に、時折、理性という防壁が音を立てて崩れ去るのを感じている。
ミリアムでの偽りの数ヶ月間は、思いの外、アズールの心に変化をもたらしていた。
一方、第二妃ダーリャは、眼前で繰り広げられる光景を、地獄の業火のような眼差しで睨みつけていた。
彼女の思考は、もはや正常な嫉妬を超えていた。
どうすれば、あの水の女神の美しい顔に、一生消えない傷を刻めるか。
どんな薬を使えば、この美しい肌が爛れ、誰も見向きもしない化け物に成り下がるか。
その悍ましい策略が、彼女の中で絶え間なく反芻されていた。
第三妃ミリファは、完全に抜け殻となっていた。
かつて自分に注がれていた微笑み、寝所で交わした甘い言葉――すべてが今の彼女には遠く感じられた。
彼女の信仰していた真実の愛が崩落し、その瓦礫の中で彼女はただ、うつろな瞳を宙にさまよわせるだけだった。
そんな妃らの極限の緊張状態など露知らず、エメロードは開き直っていた。
「……お腹が空いたよ」
彼女は空腹に耐えかね、目の前に並べられた豪華な料理や蜜菓子に、むんず、と手を伸ばし始めた。
手や口元が汚れるのも構わず、夢中で菓子を頬張り、南国の果実の瑞々しさに目を細めている。
その様子を横目で見たアズールは、思わず額を押さえて眩暈を覚えた。
「……お前、少しは、今の状況を理解しろ。」
(普通の神経なら、こんな場所で食べ物の味などわからんだろうが…相変わらずの人外ぶりだな)
彼の内心には、かつての過酷な環境で培われた鋭利な毒舌が駆け巡っていた。
だが、隣で無邪気に食べ物を詰め込み、頬を膨らませるエメロードの姿は、冷徹なアズールの胸のうちに、奇妙なほど温かな感情を灯し続けている。
その光景を見て、シファはただ小さくため息をついた。
彼女の眼には、アズールの無自覚な執着が痛いほどに見えていた。
夜の庭園に、水の神を称える歌声が響き渡る。だが、その調べはシファ妃には、これから起こる後宮の大混乱を予感せるような。
不安を誘う調べに聞こえてならなかった。
満月の夜に…がルル…には、ならない…たぶん
挿絵はお菓子をしっかり掴むエメ




