後宮編 第9章:イスファーンの至宝②
ティールリャ祭りの喧騒は、エメロードにとって想像を絶する暴力であった。
(ああ、もう、うるさい…お菓子は?
ファールス名産の薔薇蜜を掛けたプリンに、糖蜜塗れの棗椰子…サフランバタークッキー!)
なぜ自分がこれほどまでに重々しい絹に身を包み、大勢の貴族や妃たちの視線に晒されているのか、その理由が理解できない。
ただ少しだけ、祭りのお裾分けという甘い蜜を期待していただけなのに。
(どうして……? 私はただ、遠くから異国の祭りを眺めて、お菓子をつまみ食いをしたかっただけなのに?)
エメロードの心は激しく波打っていた。
イザベルに導かれて会場の中央へ進む足取りは、彼女の意志とは裏腹に、まるで洗練された女神の歩みのように優雅だった。
だが、薄絹の下のエメラルドの瞳は、困惑と不安と空腹で、不機嫌を極めていた。
そんな彼女の前に、アズールが歩み寄った。
かつて泥まみれの彼女に触れたあの大きな手で今、彼は慈しむような仕草でエメロードの手を取る。
至近距離で見つめる世継ぎの君の濃青の瞳には、かつてないほどの激しい熱が宿っていた。
「……何も、聞いてくれるな。苦肉の策だ」
誰にも聞こえないほど低く、しかしエメロードの鼓膜を震わせる囁き。
アズールはエメロードにしか見えない角度で、切ない苦笑いを浮かべた。
彼は賭けに出たのだ。
隠せば隠すほど、彼女は後宮の暗い闇に引きずり込まれるだろう。
ならば、いっそ自分という権力の光で彼女を包み込み、誰にも触れさせぬようにすればよい。
たとえ、二人の間にまだ男女の情が成立していないという滑稽な事実があったとしても、周囲には何よりも深い寵愛を見せつけるほかない。
アズールがゆっくりと、エメロードの顔を覆う薄衣を払った。
瞬間、会場から音という音が消えた。
絹が風に舞い落ちるその様すら、何かの儀式のように静謐に感じられた。
現れた素顔は、研究室の薄暗い影の中とは比較にならないほど透明で、水神の加護を受けた女神そのものだった。
彼女の白い喉元で、正妃さえ身につけることを滅多に許されぬ〝イスファーンの至宝〟サファイアが、青く冷たい光を放っている。
ダーリャ妃は、その光景に爪が掌を突き抜けて血が滲むのにも気づかない。
彼女の瞳には、嫉妬を通り越した凄惨な殺意が渦巻いていた。
ミリファ妃は、扇子を握りしめた手が激しく震え、仮面のように作り上げた無邪気な微笑みが、音を立てて崩れ去っていた。
彼女が信じていた寵愛の座が、全く予想だにしない未知の存在によって、いとも簡単に踏みにじられたのだ。
その中で、シファ妃だけが深い溜息をついた。
彼女は、アズールの瞳に映るものが単なる欲望ではないことを、誰よりも早く見抜いていた。
「……殿下、なんと残酷なことを」
シファの横で、幼い王子ジャミールが目を輝かせた。
「お母様! 見て妖精だ!」
ジャミールの純粋な叫びが、氷のように張り詰めた会場の空気に亀裂を入れた。
「妖精?」という囁きが、招待客たちの間で波紋のように広がっていく。
天女、妖精、そして水の女神――あらゆる噂が混ざり合い、彼女を聖なる存在へと押し上げていく。
エメロードを飲み込もうとするのは、甘美な称賛の渦だけではない。
嫉妬、疑念、殺意。
それらすべての感情が、この祭りの熱気と混ざり合い、後宮という舞台を沸騰させていた。
エメロードは、アズールの大きな手の中に自らが囚われているのを感じながら、ただ呆然と立ち尽くす。
女神としての振る舞いを強要されながらも、彼女の頭の中にあるのは、テーブルに並ぶ果物や蜜菓子のことだけだ。
皮肉にも、彼女のその無頓着さこそが、アズールの策を完成させ、妃たちのプライドを無残に粉砕していた。




