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後宮編 第9章:イスファーンの至宝

ティールリャ祭りの朝、宮殿の地下に広がる秘密の研究室は静寂に包まれていた。


イザベルの熟練した手つきで、エメロードの髪に絡まる枯れ草が取り除かれ、元々が北西地方特有の雪のような柔肌は、真珠のような輝きを放つまで磨き上げられた。

イザベルは鏡の中に映る少女を見つめ、微かな吐息を漏らした。

かつて仕えたファールス王の寵妃オレリア。

毒に倒れたが、最期までその純真さを失わなかったあの気高い女性。

その記憶と、目の前の少女の面影が少しだけ重なる。


(……顔つきも違う、オレリア様はもっと儚げで優美だった。歌も舞う姿も、誰よりも美しかった。

あの、憎きアルデシール王が一目で虜になるほど…)


だが、イザベルはエメロードの奥底にある、抗いがたい芯の強さと無邪気さに気づいていた。それはかつて、アズールが失い、そして今もなお、狂おしいほどに求めている光そのものだった。


「さあ、お立ちなさい。エメロード様」


イザベルに促され、エメロードは恐る恐る鏡の前に立った。

深い青の絹が彼女の肌を包み込み、胸元にはイスファーンの至宝、巨大なサファイアが冷たい光を宿している。


「……あの、イザベルさん。これ、本当に私……? なんだか、仮装行列みたいで……私、こんな派手なものは強請っていないのよ。

なんだか、どこか変じゃない?」


所在なさげに裾を摘まみ、分厚いレンズの眼鏡がなくなったせいで、どこか焦点の定まらない不安げな瞳を揺らす少女。

だが、イザベルは厳しくも、深い慈愛を込めた声で彼女の背筋を正した。


「エメロード様、しゃんとなさい。

貴女は今、イスファーンの水の女神として、この祭りの中心に立たねばならないのです。

何があっても弱い顔を見せてはなりません。……たとえどんな視線が突き刺さろうとも、ただ静かに、女神のように冷静に振る舞うのです」


その言葉の響きに、エメロードは戸惑いながらも、深く息を吸い込んだ。


(……!?まったく意味がわからないよ…祭りに溶け込んで、お菓子やご馳走を食べて、すぐ帰ってくるつもりだったのに。)


エメロードはお菓子を詰めて、持ち出す為に用意していた布袋をチラッと見つめた。

袋はイザベルに「必要ありません」と一蹴され、取り上げられてテーブルの上に置かれている。


彼女には理解できていない。

この装いが、アズールが仕掛けた苦肉の策であり、それがいかにして宮廷の均衡を破壊しようとしているのかを。


祭りの会場は、灼熱の季節を鎮めるための熱狂に支配されていた。

色とりどりの花が飾られた舞台では、第三妃ミリファの侍女たちが、水面を渡る風を表現する優雅な踊りを披露していた。


香油の甘い香りと肉の旨みある香り。

楽器の旋律が混ざり合い、後宮の女たちの色鮮やかな衣装が庭園を埋め尽くしている。


祭壇の中央に陣取るアズールの周囲は、重苦しい緊張に支配されていた。

左隣には正妃シファが、微笑みを湛えて座っている。

その隣には幼いジャミールが。

そのさらに先には第二妃ダーリャが、娘のシリンを女官に預け、赤い爪で扇子を苛立ちげに叩きながら、アズールの機嫌を窺っている。

そして、アズールの右側――そこには、不自然なほどの空席があった。


「……なぜ、陛下はあのお席を開けていらっしゃるのかしら」


側女たちの囁きが、風に乗ってあちこちへ広がる。

誰の口にも出せない疑問が、妃たちやそれに付き従う女官らの心をざわつかせていた。


シファは、隣に座るアズールの横顔を観察していた。

冷静さを装ってはいるものの、その指先はわずかに震え、瞳の奥では制御不能な熱が渦を巻いている。

シファは悟った。

今日、この後宮の秩序が根底から覆る瞬間が来るのだと。

踊りがクライマックスを迎え、水飛沫を模した金色の紙吹雪が空を舞った。

祭りの神を称える鐘が大きく鳴り響き、会場の空気が一瞬、静まり返る。


入り口から、ゆっくりと足音が近づいてきた。

先導するのは、老女官イザベル。

彼女は威厳を漂わせ、エメロードを影のように支えていた。

エメロードは薄絹の被り物を纏っているが、その隙間から覗く肌の白さと、首元で瞬くサファイアの青い光は、会場のどの妃よりも神々しく輝いていた。


会場の空気が凍りついた。


第二妃ダーリャは、あまりの衝撃に息を呑み、血の色をした爪が掌に食い込んでいた。

第三妃ミリファは、その未知の女神の登場に、扇子で隠した口元を歪ませた。

アズールが、ゆっくりと玉座から立ち上がる。

彼は玉座から降り、会場の中央――エメロードの前へと、自ら歩みを進めた。

それは側からは、大国ファールスの世継ぎとしての威厳をかなぐり捨てた、恋慕に溺れた男に見えた。

後宮に隠れるように存在していた、質素で泥臭い忘れられた哀れな側室。

彼女が、その薄絹を払い落としたとき、そこに現れるのは神の造形美か、あるいはイスファーンを破滅へと導く天女か。

すべてを見守る妃らの瞳に、初めて恐怖が宿る。

嵐の幕が、ついに上がった。


挿絵(By みてみん)

Pomezoが後宮に召されたら、ストレスで激太り決定や

女同士の戦いは苦手…

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