後宮編 第8章:女神の降臨
後宮の空気は、前夜祭を控えて熱を帯びていた。
色とりどりの鮮やかな、薄絹があちこちらでひらめく。
明日のティールリャ祭りに向け、後宮の女たちは浮き足立ち、まるで働き蟻のように忙しなく駆け回っていた。
そんな喧騒の片隅、後宮の外れにあるエメロードの自室では、今日もかなり質素な時間が流れていた。
彼女は渋い緑色の薬草茶を啜り、小さく顔を顰める。
最近はアズールの差し入れも途絶え、甘党のエメロードには嬉しい甘美な異国の菓子も、花の香りのする芳醇な紅茶も、彼女のテーブルにはない。
「……苦いなぁ!
やっぱり砂糖がないと、この薬草はえぐみが取れないわね」
エメロードは溜息をつき、後宮の庭から盗んで仕込んだ、自作の硬いドライフルーツをカリカリと齧った。
窓の外からは、立ち話をする側女たちの弾むような声が聞こえてくる。
「明日はお妃様方の宮殿でお祭りの宴があるの。極上の蜜菓子に、南国から届いた果物……。お裾分けが本当に楽しみだわ」
「いいわねえ。
ねえ?殿下は今宵はどちらの宮にお渡りになるのかしら。
最近はずっとずっと、ミリファ様ばかりが寵愛さるてるじゃない?
ダーリャ妃様は心中、穏やかじゃあないわね」
喉がごくり、と鳴りそうになるのを堪え、エメロードは分厚いレンズの眼鏡を指で押し上げた。
その唇に、ふと柔らかな笑みが浮かぶ。
(……ティールリャ祭り、か。
ふふふ、楽しそう。
そんなに沢山?立派なお菓子が並ぶの?
なら私も、一度くらいは覗いてみたいわ)
普段のエメロードは頻繁に鏡を見ることもなく、自分の容姿を顧みもしない。
けれど、せっかくの祝祭だ。
ボサボサの髪に木の枝を差したままでは不届きかもしれない。
彼女は意を決して、アズールの用意した秘密の研究室に出入りするために、自分を訪ねてきた宦官を呼び止めた。
「ねえ!ちょっと、お願いがあるの」
「……なんでしょうか、エメロード様」
「明日の祭り、ちょっと着飾って見てみたいの。
これまで一度もわがままなんて言わなかったでしょう?
ずっとこの部屋で研究しているわけだし、祭りのときくらいいいよね?」
宦官は目を丸くしたが、彼女の切実な瞳に抗えず、慌ててアズールの待つ本宮殿へと駆け出した。
報告を受けたアズールは座ったまま、やはりそう来たか。と独りごちる。
だが、諦めたように、唇の端に苦笑が滲む。
「……衣装を強請ったと?」
宦官は冷や汗を拭いながら深々と頭を下げた。アズールの表情は動揺と、言いようのない愉悦に揺れ動いた。
(監禁してしまいたい……いっそ、その方がよほど面倒がおきない。)
だが、そんな強硬手段に出れば、彼女の探究心は冷え切り、怒りを買う事は明白だろう。
アズールは深々と息を吐き、静かに思考を巡らせた。
「……分かった」
アズールは重厚な机を指先で叩きながら命じた。
「とびきり美しい衣装を、それも、この宮殿で最も繊細な絹を用意しろ。
宝石は……水神の加護を象徴する、あのサファイアの首飾りを」
宦官が驚愕に目を見開く。
それは正妃にも滅多に貸し出されないほどの宝飾品だった。
「いいのですか、殿下……?」
「……まあ、苦肉の策だ」
アズールは短く呟いた。
「乳母のイザベルを呼べ。
彼女にあの娘の身支度を任せる」
イザベル。
かつてミリアムの地からアズールの母と共に売られ、ファールスの後宮という過酷な運命に投げ込まれた女性だ。
アズールが母を失い、孤独と毒の恐怖に震えていた幼い頃、彼を抱きしめ、乳母としてその命を繋ぎ止めた唯一の存在。
彼女だけが、アズールの凍てついた心の奥底にある、幼い少年の脆さを知っていた。
「あの娘を本宮殿の秘密の研究室へ連れて来させ、イザベルの手で身支度をさせろ。」
宦官は主人の意図が理解できぬまま、ただ圧倒されて深く平伏した。
そして、祭りの直前の朝が来た。
宮殿の外では神を称える鐘が鳴り響き、後宮の女たちが戦場のような支度に追われている。
そんな中、アズールの本宮殿にある秘密の研究室には、老女官イザベルが重々しい箱を抱えて現れた。
銀髪を整え、慈愛に満ちた瞳の奥に鋭い洞察を秘めたイザベルは、研究室に入ると、ボサボサ頭のエメロードをじっと見つめた。
アズールが乳母である彼女にこの役目を託した意味を、イザベルは瞬時に悟った。
(……殿下が、珍しく、いや初めて執着する女性。
かつて、愛した人たちを毒に奪われた陛下が、今度はその毒を研究する者に心を許している。)
エメロードは、自分が何をしようとしているのか、その結果が宮廷の均衡をどう覆すのかを全く知らずに、少しだけ浮き立っていた。
イザベルの手によって髪が梳かれ、埃にまみれていた眼鏡が外される。
柔らかな水のような髪が解かれた瞬間、そこにはまだ誰も知らない美が眠っていた。
アズ君はミリアム人とファールス人のハーフ
ミリアムのモデルはフランス
ファールスはペルシャです




