後宮編 第7章:水面下の亀裂と溜息
「……おかしわね。見つからないはずが、ないのだけれど」
正妃シファは、私室の窓から柔らかな光が差し込む庭園を眺めながら、独りごちた。
彼女が放った子飼いの侍女たちは、後宮の隅々まで、女官の控え室から掃除婦の納屋に至るまで、辛抱強く探りを入れた。
だが、報告は一様に該当する者はいない。というものだった。
シファの眉間には、ごく微かな、しかし確かな苛立ちが刻まれる。
彼女の穏やかな微笑みは微塵も崩れていないが、その内面は困惑と不信で波立っていた。
(殿下ほどの方が、ここまで完璧に一人の女を隠し通すものかしら。
だとしたらなぜなの?
ミリファ妃にしても、今までの寵姫にしても…寵愛を隠すような人ではないのに…)
後宮の主たる自分が、掌握できていない存在がある。
その事実が、シファのプライドを傷つけていた。
そんな時、侍女がアズールの来訪を告げた。
部屋に入ってきた彼は、いつものように冷徹で隙のない雰囲気を纏っていた。
彼らが会した目的は、来週に迫ったティールリャ祭りの打ち合わせだ。
猛暑を和らげ、恵みの雨を願うこの神聖な祭りは、後宮にとって最大の華やかな行事でもある。
アズールは、噂の真実を隠すために、あえてエメロードの研究室から遠ざかっていた。
彼女の身を守るため、毒薬の解析状況さえも直接聞くことを避け、宦官を介して報告を受け取るという迂回策を講じていたのだ。
だが、心の奥底では、一抹の不安が疼いている。
(もし……好奇心の塊であるあの娘が、祭りの喧騒に誘われて姿を現したら?
あの野暮ったい眼鏡とボサボサの髪の裏に隠された、あの宝石の輝きが白日の元晒されてしまったら?)
「……殿下の思し召し通り、衣装は涼やかな絹を用い、装飾には水神の加護を象徴する青い宝石を配しましょう」
シファは柔和に微笑みながら、金銭の割り当てや妃たちの処遇について淀みなく打ち合わせを進める。
その一方で、アズールを探るように観察する彼女の瞳は鋭かった。
「……以上でいいか?」
「ええ、殿下。
今年も素晴らしい夏の祭りにいたしましょう」
アズールは短く応え、シファの部屋を後にした。
回廊を歩く彼の足取りは、決して軽くはない。
こめかみに鋭い頭痛が走り、彼は夕暮れの空を見上げて深くため息をついた。
刻一刻と迫る猛暑の始まりが、まるでこの王国に溜まった膿を思わせる。
執務室に戻ると、待機していた配下が深刻な表情で頭を垂れた。
「殿下、急報でございます。老王の正妃と宰相……ならびに彼らが擁立する王子の一派が、動きを見せました」
王都の権力闘争、終わりのない暗殺の影、そして何より幼い王子を盾にした政敵たちの冷酷な策略。
配下の言葉は、一言一句が刃となって突き刺さるものだった。
しかし――止まる訳にはいかない。
「先のファールス軍とミリアムの戦いで、宰相一派は俺の配下を買収していた。
まさか、脇から刺されるとは思いもよらなかった。
それだけ信用が硬い者たちだったからだ。」
何故、裏切ったのか。
口を割らせることは永遠に叶わなかった。
脇腹や背に走る灼熱の激痛に、意識を手放す直前に混じり合った視線の虚さ。
あれは、何を意味していたのだろうか。
「殿下の強運に、あるいは神々の慈悲に感謝すべきですな。
ミリアム近郊で近衛隊数人と行方がわからなくなったと、報告された時は誠に肝が冷えました。」
(……確かに強運ではあるのか?
あの歓楽街で、エメロードに出会い救われた。
元帥家の者だとわかった瞬間、どちらに転ぶかと思ったが…)
どのみち重症なら、元帥家の屋敷にでも入り込み敵の首でも上げてやろうか、とも思ったが。
つれて行かれた屋敷は魔女の館のような風変わりな場所だった。
ましてや、元帥家のあの風変わりな娘が毒の天才とは。
まさしく、運命だったとしか思えない。
「殿下?笑っておられるのか?」
「なに?」
アズールの口元には自分でも気づかぬうちに、仄かな微笑が浮かんでいた。
笑ってなどいない、と呟き顔つきを引き締めるが、彼の心にはあの薬草臭い、白金の髪に宝石のような瞳を、濁った分厚い眼鏡で隠したあの娘の姿が浮かんでいた。
何を意味してるのかな?ちゃんとした理由がある




