後宮編 第6章:噂という毒の果実
後宮の噂は、砂漠の砂嵐のように一気に広がる。
「天女が現れた」「泥まみれの妖精が陛下を籠絡した」「いや、実は異国の魔女だ」……尾鰭がつくたびにその話は色味を増し、妃たちの心をざわつかせる火種となっていった。
第二妃ダーリャの部屋は、重苦しい緊張感に満ちていた。
ファールス貴族の高貴な血を引く彼女は、傲慢なまでに美しい美女だ。
彼女は派手に赤く染め上げた爪で、糖蜜を纏わせた菓子を摘み上げると、膝の上で遊ぶ幼い娘に与えた。
その表情には、夫への執着というよりは、己の地位を脅かす存在への激しい排他心が渦巻いている。
「……妖精、ですって? 天女、ですって?」
ダーリャの切長の瞳が、爛々と妖しく光る。
彼女はヒステリックに赤い唇を釣り上げ、傍に控える側女たちを鋭く射抜いた。
「おかしいじゃない。私はこの後宮の女たちの顔をすべて把握しているわ。
殿下の寝所に召し上げられた者も、そうでない者も。……それなのに、そんな聞いたこともない女が寵愛を得ただなんて」
ダーリャの爪が、指先の糖蜜菓子に深く、ズブズブと食い込んでいく。
甘い香りと、粘りつく糖蜜が指を汚す様子を、側女たちは唾を飲み込む思いで見守るしかない。
もしその妖精、が実在するなら、自分の手でその細い首を絞めてでも引きずり下ろす――そんな昏い熱気が、彼女の纏う濃密な香油の香りに混じっていた。
対照的に、第三妃ミリファの部屋は、まるで夢見心地な空気に包まれていた。
南国の血を引く彼女は、燃えるような赤毛と、吸い込まれるような大きな瞳を持つ。
手首には、精巧な金の鎖細工に紅玉とダイヤモンドが輝くブレスレットが絡みつき、彼女が動くたびに心地よい金属音を立てた。
「まあ、天女ですって! 不思議ねえ……そんな素敵な方がいるなら、ダーリャ様がヒステリーを起こして宮殿が火の海になっちゃいそう。会ってみたいわ、妖精なんて」
ミリファはあっけらかんと笑い、細工された華奢な扇子で、官能的な唇を覆いながら夢を見るように目を細めた。
彼女は誰よりも深く、自分こそがアズールにとっての唯一無二の寵愛の対象であると信じ切っている。
アズールが自分に与える穏やかな微笑みや、寝所で交わす甘い言葉は、すべて自分だけへの愛の証だと、疑いもなく信じて疑わないのだ。
しかし、その無邪気な微笑みには、どこか現実離れした奇妙なチグハグさが漂っている。
「ほんとうにそんな人がいるのかしら? もしいるなら、殿下はきっと……その方の心臓を、お菓子みたいにくり抜いて宝箱に仕舞い込んでいるのね。
素敵だと思わない?」
彼女は愛を信じているからこそ、その信仰が裏切られたとき、彼女がどのような怪物に変貌するか誰にも予想できない。
アズールが自分以外の誰かに心を開くなどということは、世界が滅ぶのと同じくらいあり得ないことだと彼女は信じている。
だが、もしその信仰が崩れ去ったとき、彼女は自身の愛したアズールをも含め、すべてを滅ぼす引き金を引きかねない危うさを秘めていた。美しい人形のようなその表情の奥には、愛という名の猛烈な狂気が静かに眠っているのだ。
アズールの執務室。
「……殿下」
子飼いの宦官が、額に脂汗を滲ませながら、執務机に歩み寄った。彼は後宮に渦巻く不穏な空気を察知し、言いにくそうに喉を鳴らす。
「……後宮で、妙な噂が広まっております」
アズールは書簡から視線を上げなかったが、その指先がわずかに止まった。
「天女だ、妖精だ、陛下がその者を寵愛している、と……。あまりに尾鰭がつきすぎておりまして、今はどこの部屋でもその話題で持ちきりでございます」
アズールは無言のまま、静かにペンを置いた。
その表情は一見すると冷たく無表情だった。
「……噂など、ゴミと同義だ」
アズールは低く、威圧的に言い放つ。
だが、その声は微かに震えていた。
もし、この噂が彼女本人の耳に届いたら?
ダーリャのような女たちがどう動くだろうか。
アズールは椅子を立ち、窓の外を――エメロードのいるはずの後宮の端を――焦燥とともに睨みつけた。
外見は女神、中身は珍獣




