後宮編 第5章:凪の日のおわり
アズールが去った後の夜、イスファーンの宮殿は静寂のヴェールに包まれていた。
だが、正妃シファの胸の内は、凪いだ水面に小石を投げ込まれたかのような波紋に揺れていた。
彼女は幼いジャミールを寝かしつけながら、その小さく華奢な背中を慈しむように撫でていた。眠りの中にいる息子の寝息は穏やかだが、ふと漏らした「妖精」という言葉が、シファの記憶に深く突き刺さる。
(……妖精、か)
シファは、その後宮において誰よりも理知的で、慈悲深い母として皆に敬愛されている女性だ。
アズールというファールスの世継ぎを支え、後宮の複雑な人間関係を糸を解くように整理してきた彼女にとって、感情に流されるような愚かな真似はあり得ない事だった。
しかし、今宵アズールが見せた表情――あの、冷酷な仮面が剥がれ落ちたような、少年のように途方に暮れた眼差しと、息子に語りかけた時の微かな温もり。
シファは寝室を離れ、控えていた忠実な侍女たちを静かに招き入れた。その声音は常に穏やかで、陽だまりのように柔らかい。
「少し、お願いしたいことがあるの」
彼女は窓の外、月明かりに照らされた後宮の広大な庭園を見つめながら、穏やかに語りかけた。
「最近、ジャミールが後宮の外れへ遊びに行きたがるのだけれど……そこで、ある『妖精』を見つけたと言っているのよ」
侍女たちが目を見合わせる。シファは、あくまで母親として子供の空想を案じているかのように、優雅に微笑んだ。
「もちろん、子供の戯れ言でしょうけれど。ただ、殿下が少し気にされているようだから……誰がどんな素性の者であれ、その『妖精』とやらの正体を確認しておくのが、母としての務めかしらね?
誰かを傷つけるような者でないか、少しだけ調べてみてくれるかしら?」
その言葉には、嫉妬の刺はない。
あるのは、後宮という巨大な檻を管理する者としての、冷静な義務感だけだった。
シファは知っているのだ。
嵐が来る前には、必ず奇妙な静けさが訪れることを。
一方で、その嵐の正体、である当の本人エメロードは、宮廷の権力闘争とは無縁の場所で、相変わらずの日常を送っていた。
後宮の最外縁の質素な部屋。
アズールの差し入れが止まって二週間、彼女のテーブルの上には、彼女自身が庭園で採取し、丁寧に乾燥させた薬草茶と、茂みで摘んできたばかりの木苺だけが飾られていた。
彼女の姿は、今日も今日とて世の妃、とはかけ離れている。
ボサボサのプラチナブロンドには、なぜか庭で拾った木の枝が無造作に挿され、顔の半分以上を覆い隠すのは、分厚いレンズの眼鏡。
高級な香油の匂いなど欠片もなく、身に纏っているのは清潔だが色味の薄い粗末な木綿の衣服だ。
「……ん、今日の薬草茶は、少し苦みが強いかしら。でも、喉には良さそうね」
エメロードは、木苺を一つ口に放り込み、目を細めて満足げに微笑んだ。
その時だった。
部屋のすぐ外の廊下を、煌びやかな衣装を纏い、甘い香油の香りを漂わせた側女たちが、甲高い笑い声を上げながら通り過ぎていった。
「聞いたわよね? 正妃シファ様が、今、必死に『天女』を探していらっしゃるんですって」
「まあ、天女? お耳に入れた情報だと、目が覚めるような絶世の美女なんですって。
殿下の心を奪うほどのお方だとか……怖いわねぇ」
廊下に響く噂話の断片。
エメロードは、その興味深い会話を耳に入れながら、自分の膝の上にある古い図鑑に目を落とした。
(天女……? そんな人がこの後宮にいるの?どこもかしこも香油くさいし。お化粧の匂いでお腹いっぱいになりそう…)
エメロードは心から不思議に思った。
天女もわざわざこんな居心地の悪い場所に居座らなくても、よいのに、と。
自分が今、正妃という立場にあるシファから探されている存在、であるなど、想像すらしていない。
彼女にとって、後宮の妃たちとは、毎日着飾って甘いお菓子を食べて、アズールという権力者の一挙手一投足に一喜一憂する、別世界の住人だったからだ。
(はあ、私には一生縁のない世界だわ)
エメロードは眼鏡をずり上げ、ページをめくる。
図鑑の余白にびっしりと書き込まれた研究メモを眺め、至福の溜息をつく。
彼女の平和なお茶時間は、何一つ変わることなく過ぎていく。
だが、シファの鋭い観察の網は、彼女の知らないところで、確実にこの静かな部屋へと向かっていた。
凪の日の午後は、終わろうとしていた。




