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後宮編 第4章:蜃気楼の残響

沈黙は深くエメロードの心を侵食した。

地下の研究室で、彼女はひたすらにフラスコを振り、成分を分析し続けた。

三ヶ月前、アズールが提示した地獄の契約。

あの夜のキス以来、彼は一度も姿を見せない。

一日、また一日。


「……あり得ないよ!

勝手に騙して連れ去って、毒の分析は構わないけど…

理由がわからない事は嫌なのに」


研究室の重苦しい空気の中で、ぶつぶつ呟きながら、エメロードは自分の指先を眺める。

あの夜、あれは夢だったのではないか。

月明かりと、地下の冷気が生み出した、タチの悪い幻影だったのではないか。

生まれて初めての戸惑いと、僅かな怒り。

研究に没頭することだけが、彼女に残された唯一の盾だった。


その頃、アズールは正妃シファの宮殿にいた。

正妃シファの部屋は趣味の良い調度品に囲まれており、子供が好む甘い糖蜜の香りと、芳しい上等な茶の香りに満ちている。


「殿下、こちらへ」


シファが誇らしげに手招きをする。

その傍らには、彼女のスカートを掴んで隠れる五歳の少年の姿があった。

ラピスラズリが混じる黒い瞳、アズールに瓜二つの顔立ち。

唯一生き残った跡継ぎ、ジャミールである。


「ジャミール、お父様にきちんとご挨拶なさい」


シファは愛おしげに息子を抱き寄せ、その頬を撫でた。

母としての慈愛に満ちたその光景は、アズールにとっては安らぎと共に、かつて母を失った深い空虚を突き刺す。

彼は表情ひとつ変えず、厳格に頷いた。


「……陛下、この子ときたら、最近は困りものでございます」


シファは困ったように笑い、ため息をついた。


「後宮の外れ、古い庭園の草むらに女官たちを撒いては、一人で遊びに行ってしまうのです。砂埃で服を汚して……どうか叱ってやってくださいませ」


その言葉を聞いた瞬間、アズールは氷のように固まった。

――後宮の外れ。草むら。泥まみれ。

心臓が音を立てて波打つ。

あの夜、エメロードが語った言葉が、脳裏で毒のように溶け出した。


「……何故だ、ジャミール」


アズールは息子を見下ろし、低く問うた。


「何故、そのような場所にいく」


ジャミールは、父の威圧的な視線にも怯むことなく、むしろ頬を少し赤らめて口を開いた。

その顔には、隠しようもない少年らしい高揚感が浮かんでいる。


「泥まみれの、美しい妖精を見つけたのです」


シファが不思議そうに眉をひそめる。


「妖精……? ジャミール、何を言っているのですか」


「本当です。

虫を捕まえて笑っていたの。

服は汚れていたけれど、僕の知っているどの妃や女官よりも綺麗で、不思議な瞳をした人だった。……また一目だけでも会いたいのです」


ジャミールは幼い初恋を滲ませ、無邪気にそう話した。

その言葉を聞いたアズールの表情が、わずかに強張る。

自分の息子が、自分が後宮に隠す異国の娘を見つけ、あろうことか妖精、と呼んでいる。


「……いつまでも黙り込んで、どうなさいましたの?」


シファが夫の異変を訝しむ。

彼はしゃがみ込み、自分によく似た息子の小さな肩を掴むと、その瞳を真っ直ぐに見つめた。


「……ジャミール」


アズールは、絞り出すように小さな声で言った。その声は、かつての敵を裁く覇王のものではなく、一人の男の告白に近い響きを帯びていた。


「父も……妖精を探している」


「え……?」


ジャミールが目を丸くする。


「泥まみれの、変わった……美しい妖精だ。……またいつか、見つかるとよいな」


父の言葉に、ジャミールはふわりと嬉しそうに笑った。

父と息子の間に流れる、奇妙な共有感。

その光景を前に、シファはただ呆然と、夫と息子を交互に見つめることしかできなかった。


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