後宮編 第3章:侵食する熱
イスファーンの夜気は冷たく、石造りの廊下に響くアズールの足音は重く、不安定だった。
執務室へ戻るまでのわずかな距離が、永遠のように感じられた。
(なぜだ?なぜ、あんな真似をした。)
脳裏には、月明かりを反射した湖水色の瞳と、薬草の香りが染みついた泥まみれの身体。
柔らかい唇の感触が、焼き付いている。
触れた瞬間に理性が霧散し、脳髄が痺れるような錯覚を覚えた。
あんな感情は、一度も抱いたことがない。
執務室の重厚な扉を開け、アズールは椅子に力なく沈み込んだ。
「……殿下」
闇の中から子飼いの宦官が、恐る恐る声をかける。
アズールは今しがた研究室で起きた出来事に囚われ、その気配すら失念していた。
「……今宵の、お召しは。いずれの妃を寝所へお呼びいたしましょうか?」
アズールは、その問いの意味を理解するのに数秒を要した。
彼は顔を上げ、茫然自失とした表情で宦官を見つめ返した。
その瞳に宿る途方もない当惑に、長年仕えている宦官は息を呑み、思わず目を見開いた。
常に冷徹で隙を見せなかった主が、まるで帰るべき場所を見失った少年のように揺らいでいる。
それはそば近くで仕えている宦官にとって、初めて見る主の表情だった。
「……今宵は」
アズールは喉を鳴らし、掠れた声で続けた。
「体調がすぐれぬ。……誰であれ、呼ぶことは許さん。全て断れ」
宦官が退室した後、広大な執務室を静寂が支配した。
アズールは独り、暗闇の中に身を置く。
久方ぶりの独寝となる寝室へ向かう足取りは、いつになく重く、足枷を嵌められたかのように鈍い。
寝台に横たわっても、瞼の裏に浮かぶのは、あの地下室の情景だ。
泥に汚れたプラチナブロンドの髪、その細い指先の感触。
薬草の匂いがかすかに混じる清らかな唇の、何度も啄んだ柔らかさ。
そして、熱く舌先が絡み合った瞬間の、逃げ場のない感情。
アズールは自分の指先で、先ほどエメロードの頬を撫でたとき、そこについてしまったままの泥をそっと拭った。
指先についたわずかな汚れを、彼はしばらくの間、愛おしげに、あるいは自身の揺らぎを呪うようにじっと見つめ続けた。
(……何かが狂っている。
俺は、あの女をただの駒として利用している。
それなのに、なぜ……彼女の熱を、これほどまでに求めてしまう)
同じ頃、エメロードは秘密の抜け道を通り、簡素な自室へと戻っていた。
冷たい水で泥のついた身体を清め、夜着を纏うと、彼女は力なくベッドに身を投げる。
部屋の空気は、地下の研究室よりもずっと冷たく感じられた。
エメロードは震える指をゆっくりと持ち上げ、自分の唇に触れる。
まだそこに、あの男の熱が残っているような錯覚に陥った。
「……なんでよ?」
暗闇の中で、彼女は独りごちた。
「なんで、キスをしたの……アズール?」
それは契約の確認でも、情欲の発露でもなかった。
まるで、荒野で迷子になった獣たちが、互いの孤独を確かめ合うような、痛いほどの切実さ。啄み重ねた唇は、毒の解析という目的を遥かに超えて、二人の魂を震わせた。
エメロードの湖水色の瞳もまた、離れた場所にいるアズールと同じような揺らぎを宿している。
これから始まってしまう、取り返しのつかない感情の奔流に対する、小さな、けれど確かな予感だった。
彼女は自身の唇にそっと触れたまま、朝が来るのを恐れるように、深く静かな夜の闇へと沈んでいった。
一夫多妻……すんっ…




