後宮編 第2章:泥まみれの再会
イスファーンの宮殿の夜は、乾いた風が石壁を叩く音で満ちている。
後宮の最外縁の簡素な一室。
そこでエメロードは窓の外を眺めていた。
ここ数週間、不可解なことが続いていた。
部屋の隅に、身分不相応なほど上質な茶葉や、甘い菓子がひっそりと置かれているのだ。
誰も入った形跡はない。
給仕の宦官に尋ねても、彼らは一様に口を閉ざし、ただ恭しく頭を下げるだけだった。
(アズールなの……?)
その問いを口にすることはできない。彼が自分を冷遇し、関心がないふりをしていることは百も承知だからだ。
だが、この微かな気遣いに、エメロードの心はわずかなさざ波を立てる。
ある昼下がり。
宮殿の外れ、忘れ去られたように荒れ果てた庭園の茂みへ足を運んだ。
エメロードは衣装が汚れることも厭わず、異国の珍しい昆虫を観察し、毒草の知識を整理することに没頭していた。
「――おまえ、だれ? 後宮の召使い?」
茂みの陰から、突拍子もない声がした。
振り向くと、泥まみれになりながらも、最高級の絹を纏った五歳ほどの男の子が立っていた。ラピスラズリの混じる黒い瞳。
その整った顔立ちは、誰が見てもアズール・シャー・アルシャタットの生き写しだった。
(あ……)
エメロードは思わず息を呑んだ。
今の冷酷なファールスの世継ぎの顔にはない、あどけなさを残したアズールの姿がそこにあった。
「こんにちは。召使いじゃなくて、ここでお薬の勉強をしているエメロードだよ。
あなたは?」
エメロードが屈託なく微笑みかけると、少年は少しだけ気まずそうに、泥のついた指先で彼女が観察していた虫を指した。
「ジャミール。……ふーん、変な女。そんな虫、追いかけて何がおもしろいの?」
ジャミールと名乗った少年は、いかにも生意気そうな口調でそう言った。
しかし、エメロードの飾らない笑顔と、翡翠色の瞳の美しさに当てられたのか、彼の頬はみるみるうちに朱に染まっていく。
後宮という嘘と駆け引きの場所で、これほど純粋な存在と対話するのは、エメロードにとっても初めての経験だった。
そのとき、遠くから彼を捜す女たちの慌ただしい気配が近づいてきた。
ジャミールは顔をしかめると、大人びた溜息をついて「またね」と言い残し、砂嵐のように駆け去っていった。
その夜。
エメロードは地下の秘密研究室に籠もっていた。
顔には昼間の庭園の泥が乾いて張り付いている。
フラスコの中で揺れる液体の色を見極めようと、彼女が顔を近づけた、その時だった。
「――相変わらず、泥まみれだな」
背後から、低く、けれどどこか重苦しい響きを持つ声が降ってきた。
振り返れば、そこには三ヶ月ぶりに見るアズールの姿があった。
鋭い気配を纏い、塵一つない豪奢な錦糸の刺繍が施されたガウンを羽織った彼が、研究室の冷たい空気の中で立っていた。
エメロードは、今日出会った少年の面影と、目の前の冷徹な支配者の顔を思い浮かべた。
射抜くように見つめる、完璧に装った男。
エメロードは思わず吹き出した。
「……ふふっ。今日ね、あなたにそっくりな男の子に会ったの!
ジャミールっていう名前の子。
彼もあなたと同じように不機嫌な顔をしていて」
アズールが眉をひそめ、怪訝そうに硬直する。
だが、彼が泥で汚れたエメロードの顔を見つめた瞬間、ふっとその表情に変化が起きた。
かつて母が笑いかけてくれたあの遠い記憶以来、一度もしたことのないような、ほんの僅かではあるが心からの破顔。
大国の世継ぎとしての矜持も、支配者としての冷徹さも、すべてがその僅かな笑みに溶け去っていた。
「……ッ」
アズールは自らの失態に気づき、すぐに背を向けた。
肩を震わせ、喉の奥で激しく咳払いをする。
その耳までが真っ赤に染まっているのを、エメロードは見逃さなかった。
「……用件を言う。……政敵の動きが加速した。毒の解析は、どこまで進んだ?」
アズールは必死に威厳を取り繕い、エメロードに背を向けたまま冷たく言い放つ。
だが、その背中からは、先ほどまでの氷のような孤独は消えていた。
エメロードは、彼が自分に差し入れてくれた茶葉や菓子の温かさを思い出す。
息詰まるような宮殿の地下室で、完璧なファールスの世継ぎの君と、泥まみれの女が向き合っている。
その構図は、外の世界からは滑稽に見えるかもしれない。
けれど、エメロードにとっては鮮やかに、命の温度を感じさせる時間だった。
二人の間には、もはや契約だけの無機質な関係では埋められない、名付けようのない沈黙が流れていた。
アズールは、背を向けたまま、重苦しい沈黙の中にいた。
毒の解析。
それがこの地獄の契約のすべてだったはずだ。だが、今の彼は、毒の話よりもエメロードの指先に残る泥の感触や、先ほどの笑い声に囚われていた。
「……毒の正体は」
アズールが掠れ声で、絞り出すように問う。
エメロードはフラスコから手を離し、硬質な声色に緊張を察した。
「今の時点で話せることと話せないことがあるんだけど。
いくつか、極めて希少な猛毒が組み合わされているわ。
これだけの種類を揃えるには、途方もないお金と権力が必要よ。
何より恐ろしいのは、どれも無味無臭だということ。……それに、現時点で解毒の方法は見つかっていないわ」
アズールの肩が、わずかに震えた。
「……そうか」
短い返答に、すべてが詰まっていた。エメロードは、ふと今の緊張を解くように、柔らかい声で問いかけた。
「……ねえ。昼間に会ったジャミールという子、あなたの息子?」
その問いに、アズールはゆっくりと顔を上げた。冷徹な瞳には、珍しく微かな陰りが差していた。
「……俺の跡継ぎだ。正妃腹の生き残りでな。……上に二人の兄がいたが、どちらも生まれて間もなく毒殺された。
ジャミールも、幾度となく暗殺されかけている。」
彼は、淡々とした口調で語った。
妃たちの足の引っ張り合い、殺し合い。世継ぎとして生き残るために背負わされた重圧。
血で塗り固められた日常。
それを明かした彼の表情には、三ヶ月間の戦いによる深い疲労と、張り詰めた糸が今にも切れそうな危うさが刻まれていた。
エメロードは、衝動を抑えられなかった。
彼女は自分の手を差し出し、泥の乾いた汚れが混じる指先で、アズールの褐色がかった滑らかな頬をそっと撫でた。
「……本当に、地獄を生きているのね」
エメロードの細い指が、彼の美しい肌に泥の痕跡を刻む。
月明かりが差し込む秘密の研究室で、二人の時間が止まった。
アズールは、エメロードが引こうとしたその泥まみれの手を、強く掴んだ。
その眼差しに、隠しきれない戸惑いと、深い情熱が宿る。
「……エメロード」
彼は彼女を自分の方へ引き寄せた。
驚き、固まるエメロードの顔を覗き込み、アズールはゆっくりと顔を寄せる。
化粧の味もしない、薬品の匂いがかすかに混じる清らかな唇。
それを彼は、何度も、丁寧に、慈しむように啄んだ。
「……っ」
エメロードが息を呑むと、アズールはさらに深く、熱い舌先を彼女の口腔に侵入させる。
それは、かつての計算尽くしとは違う、魂を分かち合うような切実なキスだった。
東国の乾いた風が、宮殿の外壁を叩く音だけが響く中、二人の呼吸が混ざり合う。
身体が離れても、二人の視線は空中で絡まったまま、ほどけなかった。
「……え、どうして?」
エメロードが戸惑い、かろうじて声を絞り出す。
アズールは、乱れた呼吸を整えながら、すっと視線を逸らした。
先ほどまでの強引さは消え、そこにはただ、自分の衝動に溺れかけたことに動揺する一人の男の背中があった。
「……すまない」
彼はそう小さく呟き、逃げるように研究室の闇へとその身を隠した。
残されたエメロードは、泥で汚れた自分の手と、まだアズールの熱が残る唇に触れ、呆然と立ち尽くすしかなかった。
アズ君はお化粧の匂いがあまり好きじゃ無い
ま…まざ…こん…(小声)
挿絵をちまちま後から追加中
Pomezoは夜中に漫画版とアニメ版をつくり、挿絵ようにせっせと…ちょっと寝不足気味です




