水と炎と
アズールがエメロードに助けられ、屋敷に住み込み、彼女の身の回りの世話をし始めたある日の昼下り。
高貴なイリスの甘いかおりを纏い、夢のように美しい銀髪をふわり、と揺らした青年が、エメロードの屋敷を訪れた。
ミリアム王太子アンリは、尊大な印象のアイスブルーの瞳でエメロードの大切な研究室に積まれた資料をみる。
その視線は冷え切り、穢らわしいものでもみるかのように室内の全てを否定していた。
「おはよう、我が愛しきエメラルド、尊い白狼の化身…
君が照れ屋なのはね、重々に理解しているんだ。
でも、わたしにも立場がある。
わかるだろう?
今日こそわたし達の結婚に、色良い返事をもらえるだろうね?」
やや高めの繊細なアンリの声に、エメロードはうう、と本物の狼のように、鼻の頭に実に嫌そうに皺を寄せる。
アンリの白い手が、エメロードの頬へ伸びる。
その瞬間、アズールはエメロードの影に滑り込み、彼女を背後へとかばうような動きを見せた。
「……きゃっ」
アンリの手が空を切り、アズールがエメロードの細い腰をしっかりと抱きとめる。
アズールは、アンリに対して「申し訳ありません」という顔をしながら、その実は無意識に挑戦的な笑みを、ほんの一瞬、アンリにだけ見えるように浮かべた。
(こいつがミリアム王太子か?だいぶいけすかないタイプだな…)
アンリが薄青の瞳を見開いた。
目の前の男の暗い瞳から漏れた、あまりに剣呑な殺気。
使用人などという言葉では片付けられない、戦場を支配する戦士の風格が、そこには確かにあった。
「……くっ、お前は何者だ」
アンリの問いかけに、アズールは再び、美しいが従順な側仕えの表情に戻る。
「ああ、どうかご容赦ください。俺はただの拾われ人で、この屋敷の使用人です…
ただ、命の恩人のエメロード様を傷つけるような方を、見過ごすわけにはいかないので。」
エメロードはアズールを庇うように、勇ましくアンリの前に立ちはだかる。
「アンリ! 私のアズールを脅さないで!
私が婚約破棄を望んでいる理由は、貴方が私の研究室を没収するような気色の悪い粘着質な男だからよ!……分かったら、もう帰って!」
(よし!私のっていったわ!
これでアンリも諦めたはず…完璧よ)
しかし、アンリはエメロードの罵倒に、かえって興奮したように頬を紅潮させた。
「ふふ……。私の?その汚い異国人の混血の使用人がか?あり得ない。
火遊びでわたしの気を引く気かね?
まあ、よい。
また来るぞ、我が美しい白狼エメロード」
アンリが去ると、エメロードはその場にへたり込んだ。
「……まだ諦めないの?嘘でしょ?
はぁ、本当に気持ち悪い人…。うえっ…実験室が甘ったるい香水臭くなっちゃった。
アズール、大丈夫? 怖かったでしょう?」
アズールはエメロードのうなじを優しく撫でながら、彼女の背後で呆れたような、冷酷な笑みを浮かべた。
(……本当に、骨の折れるご主人様だ。
あの手の男にそんなやり方が効くものか。……
ますます執着されるのが関の山さ)
「ええ、エメ。
貴女が守ってくださるなら、俺は大丈夫です。」
甘く、とろけるような声音。
アズールはエメロードの手を取り、華奢な指先にそっと唇を寄せた。
「はう…アズール?なに?指に何かついてるの?」
真っ赤になりソワソワしながら、長身のアズールを見上げる。
アンリが去ったあとの研究室には、彼が残していった高価な香水の香りが充満している。
エメロードは落ち着かない素ぶりを、隠すように早口で話し出す。
「……はぁ。あんな人と結婚したら、私の実験器具は全部、アンリの命令で燃やされちゃうよ!どうしよう…」
「……随分とご執心されてますね?」
不意に、耳元で低い声がした。
先ほどまでの穏やか側仕えの面影は消え失せ、彼が纏うのは戦場の火煙を潜り抜けてきた男特有の、むせ返るような雄の匂いだ。
アズールは、エメロードの眼鏡を優しく外した。
湖水色の瞳が、あからさまな動揺で揺れる。
アズールは、彼女の柔らかな頬を親指でゆっくりとなぞった。
「怯える必要はない。
……貴女が望むなら、俺がこの手で、あの香水臭い王太子から解放してあげましょうか?」
「アズール……?」
「俺は貴女の拾い物でしょう? 」
アズールは彼女の腕を引き寄せ、逃げ場を塞いだ。
距離は限りなくゼロに近い。
彼の肌から伝わる熱が、エメロードの思考を強制的に停止させる。
アズールにとって、これは軽い冗談と、信用させるための手段に過ぎないはずだった。
だが、彼女の無防備な白い首筋にを見た瞬間、腹の底から焼け付くような衝動が湧き上がる。
(……くそ。こいつ、天然で俺を狂わせる気か)
内心では荒々しい毒舌を吐きながら、アズールはあえて甘美な笑みを浮かべ、彼女の首筋に軽く唇を近づけ…息が掛かる距離で止める。
「……ひゃっ……アズール?急に何してるのよ!」
「……おっと、失礼。やりすぎた。
悪さが過ぎましたね」
エメロードは顔を真っ赤にしてフリーズしている。
アズールは内心で完全に動揺しているな、と冷徹に分析しながら、その実、彼女の反応の愛おしさに己の支配欲が高まるのを感じていた。
一方、その頃。
王宮の深奥、高貴な静寂に包まれた王太子の自室にて。
アンリは雨粒が張り付く窓の外を眺め、氷のように冷徹な瞳を細めていた。
「……あの男め。ただの使用人ではないな」
傍らに呼びつけた密偵を一瞥し、アンリは陶器のように滑らかな指で、透明なワイングラスを弄ぶ。
彼の美貌は、夜の帳が降りるほどに磨きがかかり、見る者を魅了し、同時に底知れぬ後味の悪さと、冷たい水底を覗くような恐怖を与える。
「アズールか……。
あれをただの使用人と見誤るなら、わたしの眼力も地に落ちたということだ
……調べろ、あれの素性を。
だが、今は手を出すなよ?
あれは、わたしの大切なエメロードを汚した罰として、最後にはあの娘の目前で、わたしの足元で這いつくばらせる」
エメロードが居ない場所での、アンリの言葉には常に感情の起伏がない。
ただ、深く、淀んだ底なし沼のような冷たさだけがあった。
「エメロード……。
お前がどんなに抵抗しても、逃げ場はない。
運命が定めた番は、必ず結ばれるのだよ」
静まり返った部屋に、グラスを置く乾いた音だけが響く。
ミリアム王国の「水」と、異国から来た異質な「炎」。
二つの力が、エメロードを巡り水面下で激しく衝突し始めていた。
エメは白狼?(口を開かせたら小さな牙があるかもしれない…)




