プロローグ:路地裏の拾い物
北方の大国たる千年王国ミリアム。
巨狼を神と崇め、その娘たる白狼の化身エレノールと、ミリアム始祖が造ったとされる古王国。
そのアンダーグラウンドたる歓楽街。
闇が訪れぬ眠らぬ世界にて、放蕩貴族たちが次々と娼館に馬車を付け古の神殿を模した入り口に吸い込まれる様子をチラリと見ながら、1人の少女がふわふわした白金の髪を揺らし通り過ぎて行く。
高級娼館の路地裏の湿った道には、甘ったるい香水と排泄物や溝の臭いが混ざり合い、どこまでも澱んでいた。
エメロード・ドゥ・ラ・リュシェールは、そんな淀んだ空気を微塵も気に留めず、分厚い伊達メガネを細い指先で押し上げる。
(水滴が…)
ポツポツと音を立てて降り出した雨粒から、非合法な闇商人から、買い求めたばかりの珍しい薬草を守るように抱え囲む。
リュシェール元帥家令嬢、と言えばミリアムでは、王家に次ぐ権力を持つ名家の出である。
しかしそんな高貴な身の上の彼女が纏っているのは、仕立ては上等だが、薬品のシミを擦り付けた古びたドレスだ。
周囲の売春婦や客引きたちは、彼女の奇妙な風体を「またあの変わり者の令嬢が徘徊している」と嘲笑し、影でクスクスと笑う。
だが、エメロードにとってはそんな評判などどうでもよかった。
「何だろう?血の匂い…」
小さな鼻先をすんっ、と動かしていた彼女の足が、薄暗い路地裏の入り口でピタリと止まった。
積まれたゴミの山の影に、長身で大柄な男が倒れている。
男は酷く傷ついていた。
鎖を引きちぎったような手首の傷跡、ボロボロに裂けたどこか異国風の黒い服。
鋼のように引き締まった体躯には、幾筋もの痛々しい刀傷が刻まれている。
汗と泥で汚れた黒髪の隙間から覗くラピスラズリの瞳には、死に体でありながら、全てを切り裂くような鋭い殺気が宿っていた。
(……これまでか、シファ…ジャミール…母上すまない。戻れそうに無い)
月明かりに照らされたエメロードの姿を、雨と血に濡れた顔をあげて見つめた男の喉から、異国の名前が絞り出すように漏れ出ていた。
「……あなた、生きてるの?
シファ?ジャ…何語かしら?聞き取れないわ…」
エメロードは雨も泥汚れも気にせず、迷わず男の傍らに膝をついた。
彼女の指先が忙しなく動き出す。
腰のポーチから取り出したのは、宮廷医師も腰を抜かすような、極めて高性能なエメロード特製の鎮痛軟膏だった。
男は、再びかすかに意識を取り戻した。
激痛と疲労の中で、男は目の前の女をぼんやりと認識した。
――小柄で、薄汚れた地味な身なりの、あまりに無防備な娘。
だが、その指先から香る、薄荷のような香りを通り過ぎた視線の先、揺れるペンダントの裏の紋章を見た男の端正な顔が驚きに固まる。
(……番の狼の紋…?)
男は瞬時にこの路地裏に相応しい、か弱く、怯えた男娼の仮面を被った。
「……助けて、くれ。……俺は、身寄りのない男娼だ。主人から酷い扱いを受けて…必死に逃げ出したんだ。」
アズールと名乗った男は、流暢なミリアム語を話し、掠れた声で身の上を語りだす。
ラピスラズリの瞳から剣呑な光を消し、捨てられた子犬のような、か弱く、そして切実な雰囲気を漂わせる。
「え、男娼……? こんなに深い傷を負うなんて、雇い主はなんて酷いことを!」
エメロードの湖水色の瞳には、偽りのない義憤と純粋な驚きが浮かんでいた。
その表情を見た男は、内心で冷笑した。
(純粋な娘だな…あまりにも)
「大丈夫よ、私が守ってあげる!
私の屋敷は、街とも離れてるし……とにかく、家なら安全よ!」
彼女は細い腕で、強引にアズールの身体を支えようとした。
鍛え上げられた猛獣のような重みなど、彼女の情熱の前では何の意味もなさないようだった。
「……感謝する、俺の名前はアズール。……この恩は、必ず」
アズールは、わざとらしく震える指先で、エメロードの汚れたドレスの裾を掴んだ。
彼女が連れ帰ったのは、何処の誰とも知れぬ、重傷を負った男。
ただそれだけの存在として、アズールは彼女の懐へと潜り込んだ。
彼女が連れ帰ったその男が、伏せた顔を自身の馬鹿らしい演技を笑うように皮肉げに歪め、冷酷な計算をその脳裏に巡らせていることなど、エメロードには窺い知れないことだった。
馬車から降り、彼女は彼を自室でもある離れの研究室へ引きずり込むと、乱雑に積まれた薬草の山を片付け、簡易ベッドへと寝かせた。
その途端、エメロードは安堵したように、ふぅとため息をついた。
「よかった……。身体が頑健だから治りもきっと早いわ。しっかり1か月くらい療養すれば大丈夫。」
彼女は分厚い眼鏡をはずし、ふきふきと服の端で拭き始めた。
メガネを外したその瞳は、磨き上げられた宝石のように美しく、無垢な輝きを放っている。
アズールは、ベッドの上でゆっくりと瞼を上げ、繁々とエメロードの美貌を観察する。
心の中では美しさに感嘆するより呆れが勝り(この女、警戒心という言葉を知らぬのか?)
と毒を吐きながら、彼は完璧な笑顔を浮かべた。
「……俺のような素性のわからない男を助けて、後悔はしませんか?ご令嬢…」
その声音はベルベットのように滑らかで、甘く、低い。
エメロードは湯を沸かし軟膏や包帯を準備しながら、振り返るとニッコリと笑った。
「 あら、ご令嬢なんて。エメロードよ、エメでもいいわ。
後悔なんてしないし、人助けなんて、当然のことだもの!それにすこぶるタイミングがいいわ!」
エメロードは小さな声で、天の助け、と呟きこれで元帥令嬢の悪評に止めを刺したり。
と内心で小躍りせんばかりだった。
(やっぱり、顔の汚れを落としたら凄い美形だわ。それに鍛えられた戦士みたいな筋肉…。
彼ならあの変態専用の用心棒にはちょうどよいかも…)
アズールは獲物を品定めするように、彼女の無防備な美貌を見つめ、内心で変な娘だ。と苦笑いし聞き返す。
「タイミング?」
「あのね、傷が癒えてももしよかったら、しばらくうちに住まない?」
「はあ?年頃のご令嬢の頼みとはとても思えませんが…」
アズールは一度言葉を区切り、どうにも何かを伝えたそうな、エメロードの表情を観察する。
「まあ、あのまま雨の中、あの傷で動けなければ死んでましたから。
俺に出来ることならやりますが…。
ご令…いやエメロード様は貴族の令嬢でしょう?
結婚に響き兼ねないのでは?」
結婚という言葉を耳にしたエメロードの月の女神のごとき美貌が凍りつく。
小さな鼻頭に獣のような皺がより、愛らしい細い喉元からはグルグルと唸り声が聞こえた気がした。
(獣じみてるな…番の狼の紋章の首飾り、あの家の血筋の娘が何故こんな屋敷に1人で住む?)
アズールが運び込まれた屋敷はこじんまりとしており、使用人すらほとんどいない。
屋敷の入り口にすら汚れた分厚い専門書が積み重なり、得体の知れない薬瓶、何かのホルマリン漬け、果ては骸骨…
不気味を極めたような廊下には、埃と薬品の匂いが染み付いていた、
たとえ重症であれ、傷の痛みには慣れっこのアズールには、自分が身を置く場所を把握するほうが休養より、ある意味大切だった。
簡易ベッドに大柄な身体を横たえるアズールの衣服を脱がせるエメロードの、暖かく柔らかい手のひらの感触に彼は目を上げ、その手を止める。
「さすがに…それは、よくないかと。
ミリアムの文化は知らないが、俺の国では許されないことだ。
身分ある未婚の娘が男の裸を気軽に見るべきじゃない。」
手を止められたエメロードが宝石のように煌めく緑の瞳を吊り上げる。
お湯を張った盤に清潔な布を浸し、有無を言わさずにアズールの汚れた衣服を脱がして行く。
「そんなこと言ってたら感染症を起こすわよ?
ほら、下は自分で脱げる?無理でしょ、その怪我じゃね。大人しくしてよ。」
銀に光るハサミを片手に戸惑い、端正な美貌を顰めるアズールを無視して彼のズボンをジョキジョキと切り裂くエメロード。
「おい!待て、それは…!」
「染みるよ…我慢してね」
言うなり傷だらけの身体をゆっくり、しかし的確に清潔な布で清め始める。
(すごい、腹筋…背中も、腕も足も…これは戦う人の身体だ。
男娼?…買った事もないからわからないけど…この人は違う。
きっと、何か訳があるのね。)
彼の下腹部には目線がいかぬように、気を遣うエメロード。
何故か途方に暮れたように、拗ねたようにそっぽを向き、消毒され軟膏を塗られる痛みに唇を噛むアズールを盗み見る。
「しばらくうちに住んで欲しいってお願いしたのはね…従兄弟に言い寄られて困っているから助けて欲しいの。」
エメロードは淡々と自身の身の上を語りだす。
「エメロード・ドゥ・ラ・リュシェール、それが私の正式な名前よ。
本当はもっと長いけど、舌を噛んじゃうくらい長いから省略ね。
リュシェール元帥家、異国の人はわからないかも知れないけど…ミリアムではうちのお父様は王家に次ぐ権力者なのよ」
アズールは番の狼の紋章を見てすでに察していたが、わざと驚いたような表情を浮かべた。
「そんな高貴な人がなぜ、こんな小さな屋敷に1人で?
それに、従兄弟が言い寄るとは…」
エメロードはほう、と息を吐く。
「色々あるのよ。
でも、この屋敷は叔父上であるミリアム国王が温情で与えて下さったの。
わたしは気兼ねなく研究ができて気に入ってるよ?
ああ、そう!その従兄弟が…実はこの国の王太子アンリ4世なんだけど…
私ね、ほんとに困ってるの!」
だから、貴方に助けてほしいのよ!と続ける彼女の顔を、アズールは疑問符を貼り付けたような表情で見返す。
(アンリ王太子、特に悪い噂は聞いたこともないが…この娘があの、アルベール•リュシェール元帥の娘なら、縁談相手にはもってこいな相手だろう?)
「よい、縁談にしか聞こえませんが…俺には」
エメロードは美しい瞳を爛々と光らせ、切羽詰まった表情で説明する。
「アンリはね、とっても変態で気持ち悪いの!
小さな時に私の目がエメラルドみたいで綺麗だから、ちょうだい?て言って、くり抜こうとしたの。
それに、私が14歳になった日からずっと4年間、何度も何度も断っても結婚しよう。の一点張りで…話がまともに通じないのよ。
ね?怖いでしょ?」
「は?目を…なんて言いました?」
(聞き間違いか?目をくり抜くと言ったのか?)
「だから!私の目がエメラルドみたいだから欲しいからって、あいつはくり抜こうとしたのよ。
小さな頃のことだけど、あの日の恐怖は絶対に忘れない…」
憤怒に燃え、厚底眼鏡をずいっと人差し指で押し上げながら、エメロードは鼻息荒く続ける。
「とにかく!アンリなんかと結婚したら人生の終わりだわ!
だから…あなたもその、しばらくは居場所が必要だろうし。
お互いに、ね?」
「はあ、お互いに?
いや、いまいち分からないんですが。
俺がここにいる事が何故、貴方のその従兄弟からの求愛から身を守る事になるんですか?
得体の知れない男娼上がりの居候なんて、年頃の令嬢が囲えば確かに、外聞は悪いが…」
(厄介なのはごめんだ…ましてミリアム王太子だと?あまりに危険すぎる。)
アズールはエメロードの分厚い眼鏡の反射に映る自分の姿に気付き、一瞬躊躇いつつも続ける。
『お気づきでしょ?
俺はこの国の人間じゃない。
東よりの、小さな国から流れてきたんです。
貴女の国、ミリアムとファールスの長い争いに巻き込まれてね。
ミリアムの王太子様なんかに目を付けられたら、たまったものじゃない…」
アズールは悪びれる事なく嘘を吐く
エメロードは唇を噛むと、パン!と音を立てて最後の傷口に軟膏を擦り付け、ギリギリと包帯を巻き付けた。
「ぐっ…くそ!八つ当たりか!」
痛みにアズールの端正な顔が歪む。
やや浅黒い肌に、柔らかな漆黒の癖毛、上等なラピスラズリのように暗い青の瞳には、ほんの僅かだが金が混じっている。
東でも西でもない、不思議な容貌。
「薄情者には当然だわ!
何よ、厄介ごとに巻き込む気はないわよ!
ただ、ほんの少し、王太子妃には相応しくない噂でも立てば、それだけでいいの。
貴方すごく見栄えがいいし…
元帥令嬢が美男の異国人の元男娼を召使いにして、囲ってる、とか?」
「は?おまえ正気か?
それが厄介事じゃなきゃ、何が厄介事なんだ?」
思わずぶっきらぼうに呟き、部屋の明かりを反射する分厚い眼鏡に目を細め、ため息をつく。
(そんな噂が立てば一生嫁の貰い手もなかろうに。女には相続権すらないミリアムで、王太子を袖にして生きていけるのか?
まったく、よくわからん女だ。
この不気味な研究室のような部屋といい…)
だが、アズールにはアズールの事情がある。
傷が癒え、目的が果たされるまでは、この馬鹿らしいあそびに付き合うしかないのか。
彼は内心で冷静に計算し、諦めたように力を抜き、薄く整った唇を開いた。
簡易ベッドが、彼の大柄な体を持て余したように酷く軋んでいた。
「ちゃんとしたベッドで休ませてください。
それと、住み込みの召使いならしっかり給金は貰いますよ?
3食くらいは出るんでしょうね…
ああ、後、俺の身体が良くなって落ちついたら、屋敷を出て行かせてもらう。
その間に、貴方の目論見通りの噂が立てば、お互いに悪い話ではないと言うことで。」
不承不承、低い不機嫌そうな美声に、エメロードは嬉しそうに頷く。
「ええ、ええ!
もちろんよ、それで構わない!
でも、ごめんなさい?あの、うちには料理人もメイドもいないの…
私、掃除も料理もなーんにもできないのよ」
楽しそうに告白されたセリフに、アズールはもうどうにでもなれ。と頷き返した。
「俺が…やりますよ…はあ…まったく」
「まあ、よかった!」
キラキラ光る厚底眼鏡をずり上げ、エメロードは「よろしくね?」と、アズールの顔を覗き込み囁やいた。
友人より挿絵あればいいな、と要望があり
たまに挿絵(AI自作)を章の最後にいれてます
お嫌いな方は絵の頭枠見えたら、そっ閉じをば…
そして、後宮編(掲載中)以降のラストまではイメージが先にすぐに湧いたのに…プロローグが…納得いかない感がすごい
ラストまで載せたらプロローグ章だけすこし手直しする?
プロローグ除いて、3部仕立てのはなしだから、まだ先かな




