後宮編 第1章:紅蓮の檻と沈黙の三ヶ月
イスファーンの宮殿は、砂漠の太陽を吸い込み、夜になるとその熱を冷たい石壁へと放出する。
巨大な後宮の最外縁、埃の漂う簡素な一室。
それが、異国より連れ去られたエメロードに与えられた唯一の居場所だった。
窓から差し込む陽光は、砂塵が舞う空気を淡い黄金色に染め上げている。
エメロードは机に座り、粗末な薬草の標本を整理しながら、窓の外の回廊を通り過ぎる女官たちのざわめきに耳を澄ませていた。
「聞いた? 今夜、アズール様が呼び出したのは、第三妃のミリファ様ですって」
「あの赤毛の……ええ、あの方のグラマラスな美しさは、世継ぎの君の情熱を掻き立てるには十分だもの。今日も今日とて、あからさまな寵愛ぶりだわ」
回廊の声は、どこか刺々しい。
アズールは、意図的にエメロードを無視していた。
彼からの声掛けなど、この三ヶ月間、一度たりともない。
あからさまな寵愛の無さ。
それはこの宮殿において、もっとも軽んじられている女という格付けを意味していた。
他の側室たちは、エメロードを異国から連れてこられたものの、今や主の興味を失った無能な飾り物として扱い、冷ややかな視線を向けつつも、直接的な害意は抱いていない。
その孤独こそがアズールが張り巡らせた防壁であることに、エメロードは気づいていない。
部屋の影には、アズールが密かに配置した子飼いの宦官が、毒味と護衛の任務を帯びて夜な夜な監視を続けている。
彼らにとってエメロードは、決して傷つけてはならない駒のようだ。
エメロードは目を閉じ、三ヶ月前、あのイスファーンの門を潜り抜けた日を思い出す。
豪奢な装飾が施されたアズールの執務室。
そこに足を踏み入れたとき、彼女は息を呑んだ。
唐草を模した青色の絨毯の上で、アズールは戦場から帰還したばかりのような雰囲気を纏っていた。
剥き出しの刃物そのもののような彼が、机に肘をつき黒髪を払い冷徹な美貌で、緊張から珍しい白金の髪を指先で弄ぶ、エメロードを射抜くように凝視していた。
「エメロード。側室として俺に媚び、その身を腐らせるか」
彼は立ち上がり、ゆっくりと歩み寄る。豹のように静かな歩調。
「それとも、契約するか。この地獄を生き抜く契約を?」
アズールの濃青の瞳には、母を殺された七歳の冬から変わらぬ静かな怒りが宿っていた。
彼はエメロードに、有無を言わさぬ圧力をかける。
「俺の母を殺した毒。
ファールスの学者、最高級の薬品をもってしても特定できなかった、ある毒を解析しろ。……俺の政敵の手札を見極める必要がある」
彼は、彼女の鮮やかなエメラルド色の瞳を深く覗き込んだ。
「本宮殿の地下に秘密の研究室を用意する。
表向きは後宮の端、使い捨ての側室として冷遇されていろ。
おまえが目立てば、俺の敵はすぐにおまえを消そうとするだろうからな」
その提案は、あまりに理不尽だった。
だが、エメロードは恐ろしさは麻痺し、未知の毒の研究に対する興味が、燃え上がるのを感じた。
それと同時に、彼の手の温もりに、あがらえない何かが微かに揺れる。
「すべてが終わった暁には、多額の報酬と共に、この国から遠く離れた南の国へ逃がしてやる。もちろん、安全を保障してな」
その言葉を、彼女は信じたわけではない。
エメロードは目を開き、暗い石壁を見つめた。
今夜もまた、抜け道を通って地下の研究室へ行く。
そこには、アズールの亡き母の遺品。
彼女の遺髪。
そして、彼がいままで独自に当たりをつけて調べ入手してきた、あらゆる毒薬のサンプルが置かれていた。
「……アズール。あなたが本当に求めているのはなに……?」
彼女は小さく独りごちて、立ち上がった。
三ヶ月の沈黙は、彼女を研究者として冷静にさせていた。
エメロードは鏡に映る、変わらぬ純真さを秘めた瞳を確かめ、静かに部屋の隠し扉へと向かった。
地獄の契約は、今まさに、その深淵を広げようとしていた。
偽りの側妃の契約




