第5話 熊谷行き、隠れるための眠り
非常口から外へ出たあと、俺は全身を震わせながら裏通りへ飛び出した。
クロックスは、やっぱり大人サイズでぶかぶかだ。
かかとが浮くたび脱げそうになり、
足の指で必死に靴の前を掴みながら走った。
「……頼む……脱げるな……っ」
走る少女の身体は軽いが、
足元が不安定だと恐怖が倍になる。
施設の連中。
白衣の男。
警察。
どこから誰が探しに来るか分からない。
補導室を抜け出したということは、
もう「行方不明少女としての扱い」される可能性が高い。
――急がないと。
◆
警察が探しそうな場所は、経験で分かる。
生活安全課で働いていた過去が、今ここで役に立つなんて皮肉だ。
まず 最寄り駅だ。
未成年が失踪したら、警察はまず駅周辺を徹底して調べる。
ターミナルのカメラ、改札の警備、巡回中の警察官――
一番危険な場所だ。
防犯カメラも避ける。
少女がひとり裸足に近い格好で逃げていたら、
それだけで「保護対象」として声をかけられる。
自転車も危険。
乗れる年齢の子どもに見えても、
「一人でどうしたの?」と聞かれる可能性が高い。
だから――俺は歩く。
裏道を選んで。
◆
服装も変える必要があった。
警察は、防犯カメラ映像から服の色で追跡する。
「……裏返せば……別の服に見えるかも……」
パーカーを裏返して着る。
肌にプリントが当たって気持ち悪いが、
防犯カメラ対策としては有効だ。
「変な人に見られても……仕方ない……」
映像に写った色が違えば、
捜索は混乱する。
◆
逃げながら財布を確認する。
朝コンビニで食べた分の残り、
小銭と千円札が数枚。
――タクシーが使える。
遠すぎると怪しまれる可能性もあるが、
“駅まで”くらいなら、子どもでも乗る。
そこで、行き先を決めた。
熊谷駅の近く。
県外である程度距離があって、
なおかつ治安も悪くない街だ。
駅前は広く、人も多いが――
タクシーなら「降りるだけ」で問題ない。
そこから歩いて別の場所に移動すれば、
警察署からは十分離れられる。
◆
駅の裏路地まで回り込み、
ロータリーを避けてタクシーを探す。
表のロータリーには警察官がいる可能性がある。
もちろん施設側が探しに来る可能性もある。
裏通りの、少し古い酒屋の前に――
一台のタクシーが停まっていた。
白い車体。年季の入った車内。
そして運転席には、白髪交じりのおじいちゃん運転手。
――この人なら。
経験上、年配のドライバーは
余計な詮索をせず、客に干渉しない人が多い。
「……あの……」
声をかけると、おじいちゃんが顔を上げた。
「おや? どうしたんだい、ひとりか?」
「……熊谷駅の近くまで……お願いします……」
少し迷ったが、明確な地名を告げた。
変に曖昧な目的地より、自然に聞こえる。
「熊谷ね。ずいぶん遠くまで行くんだな」
遠いけれど、常識的な範囲だ。
これなら不審には思われにくい。
「……親のところに、行くの……」
本当は嘘だが、
タクシーの運転手にとっては自然な説明だ。
「そっか、じゃあ乗りなさい。寒いだろ」
よかった。
この人は追及してこないタイプだ。
俺は後部座席に乗り込んだ。
◆
タクシーが動き出した瞬間、
少しだけ緊張が緩んだ。
けれど――油断は禁物だ。
警察がパトカーを走らせて捜索していたら、
窓から乗客の顔を確認してくる可能性がある。
施設の連中がタクシーを止めようとする可能性だってある。
だから――
俺は、横になった。
「す、すみません……
ちょっと……寝てても……いいですか……?」
「おう、構わんよ。疲れたんだろう」
運転席から優しい声が返ってくる。
横になる理由は一つ。
外から乗客の顔を見られないようにするため。
タクシーの窓は外から確認されやすい。
制服の警察官がのぞき込むこともある。
座ったままだと、子どもの顔は簡単に見えてしまう。
だから、身を伏せて座席に横たわった。
「……」
緊張で、心臓がどくどく鳴る。
タクシーのエンジン音。
道路の振動。
窓の外を走り去る影。
そのすべてが子どもの身体に重くのしかかった。
――寝ちゃいけない。
そう思った瞬間、
さっきから溜まり続けていた疲れが一気に押し寄せてきた。
補導室を抜け出し、走り続け、
警察からも施設からも逃げるために神経を張り詰めたままだった。
身体は小さく、エネルギーの消耗も早い。
「……すこしだけ……」
おじいちゃん運転手がバックミラーでこちらをちらりと見る。
「無理しないでいいよ。ゆっくり寝なさい」
その声が、妙に温かかった。
安心した途端、
視界がゆっくりと揺れ、
重たい眠気が瞼を落としていく。
できるだけ隠れるために横になったはずのその姿勢が――
やがて本物の眠りへと変わった。
タクシーは静かに熊谷へ向かって走り続ける。
俺はその後部座席で、小さな少女の身体のまま、深い眠りに落ちていった。




