第6話 熊谷への旅路、
どれくらい眠っていたのか分からない。
ふと目を開けると、タクシーの窓の外には
見覚えのない国道の景色が流れていた。
「……まだ、熊谷じゃ……ない……」
横たわったまま身体を起こすと、
小さな胸がきゅう、と痛むほど焦りが広がった。
運転席上のメーターが赤く光っている。
――やばい。
数字は、俺の所持金にほぼ近い額を示していた。
これ以上走られたら払えなくなる。
「……あ、あのっ……!」
少女の声で呼びかけると、
運転手のおじいちゃんがバックミラー越しに優しく振り返った。
「ん? 起きたかい」
「……あの……ここで……降りたい……」
焦りが声に出ていた。
本当は熊谷まで行きたいが、
このままでは支払いができない。
タクシー料金の未払いは、当然トラブルになる。
彼が通報したら、すべて終わりだ。
すると――
おじいちゃんは深く息をついて、
まるで覚悟を決めたように言った。
「……熊谷まで行こう」
「え……?」
思わず声が漏れた。
「どうせ今日は暇だしな。
……なんだか、お前さんを途中で降ろす気になれないんだよ」
心臓が一瞬だけ止まったような気がした。
優しさ――なのか?
それとも、もっと別の感情なのか?
おじいちゃんは道路に目を戻しながら続けた。
「……お前さん、うちの娘に少し似てるんだよ。
もう何十年も前に死んじまった娘に、な」
静かに言ったその声は、深く重い哀しみを含んでいた。
その言葉でようやく理解した。
――この人は、俺を助けたいと思っている。
でも、その優しさが今の俺には怖さにもなった。
「……お金……ない……です……」
恐る恐る聞くと、バックミラー越しに小さな笑いが返ってきた。
「気にするなって。お前さんが困ってると分かった乗せたんだ、
途中で降ろすなんて、そんな冷たいこと、わしにはできん」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
どうして見知らぬ少女のために、そこまで……?
「まあ、心配せんでいい。
熊谷に着いたら、わしはただ走っただけさ」
それ以上追及する気はないようだった。
ただ静かに、
熊谷駅の方向へハンドルを切っていく。
◆
しばらくして、タクシーは熊谷駅の近くで停車した。
「ここでいいだろう」
駅正面を避けた、人の少ない一角だ。
このまま人混みに紛れれば、
警察もあの施設の連中も追って来れない。
ドアが開くと、冷たい風が流れ込んだ。
「……おいくら……ですか……?」
本当は全額払わなければいけない。
でも、足りない。
すると運転手は、ひとつだけ指を立てて言った。
「千円だけくれりゃ十分だ」
「え……でも……」
「困ります。普通の料金じゃあ……」
震えながら言う俺に、おじいちゃんは首を横に振った。
「……いいんだよ。子どもの旅路に小遣い取るほど落ちぶれちゃいない。
それにな……」
少しだけ目を細める。
「……ほんとうに、娘に似てるんだ。
一度くらい、娘を助けた気にさせてくれ」
言葉の意味が胸に刺さって痛くなった。
俺は少女ではない。
男として生きてきて、間違いもたくさんした。
でも今、この人の目には“少女”として映っている。
それが苦しくて、でも、ありがたくて、
胸の奥で複雑な感情が泡立っていく。
千円を渡すと、
おじいちゃんはなぜか缶を差し出した。
「飲みなさい。ホットコーヒーだ」
「え……こ、コーヒー……?」
未成年に渡す飲み物としては微妙だ。
お茶でもジュースでもなく、
ホットコーヒーというあたりに、不器用さと優しさが滲んでいた。
「寒いだろ。ほら、持っていきなさい」
受け取ったコーヒーは熱くて、
火傷しそうなほどだった。
おじいちゃん運転手は最後にこう言った。
「……気ィつけてな。どこへ行くにも」
そして、降りるとタクシーは静かに走り去っていった。
久しぶりに飲むブラックの味は、
驚くほど苦かった。
でも――
全部飲んだ。
それが、この人への礼儀のような気がした。
飲み終えた缶を胸に抱えたまま、
ゆっくりと歩き出す。
◆
熊谷駅の近くに立つ。
風が冷たく、肌に刺さる。
だけど――
ここまで来たら、もう戻れない。
俺が行くべき場所は決まっている。
熊谷市の児童相談所。
俺は、たった一人でそこへ向かった




