三 ちっぽけな私たち④
「だから、美波も大丈夫だよ」
「え……?」
「今は未来に希望が持てなくて、まだ自分の置かれた状況を受け入れられないかもしれない。つらくて苦しくて、泳げる奴らが羨ましい気持ちもあると思う」
輝先輩の言葉が、心を優しく包み込んでいく。
「でも、それでいいんだ。そういう気持ちを持ってることは当たり前だし、羨んだり憎くなったりするのもおかしいことじゃないから」
まるで私の気持ちを代弁するように。
汚い部分も、醜い部分も、丸ごと全部肯定してくれる。
「だから、そんな風に想う自分を否定しなくていい。そういうところも受け入れていけば、意外と少しずつ傷は癒えていくから」
今はまだ、彼の言うことをすべて信じることはできない。
「俺もそうだった。時間が解決してくれたこともたぶんあるけど……でも、結局は自分の汚い感情も受け入れられるようになって、ようやく苦しみから抜け出せた」
乗り越えた人間と、まだ足踏みをしている人間じゃ、天と地ほど違うと思うから。
「時間はかかったけど、自分の傷と向き合えるようになって……。そしたら、自分でも驚くほど今の状況を受け入れて、ちゃんと折り合いをつけられた」
だけど、私だって前を向きたい。
苦しさや不安に捕らわれてばかりいないで、ちゃんと笑えるようになりたい。
「きっと、美波にもできる。俺ができたんだから、つらい時に逃げずに練習してきた美波にできないはずがない」
子どもみたいにうずくまっていた情けない私のことを、こんな風に信じてくれる人がいる。
輝先輩が『できる』と言ってくれるなら、できるかもしれない……と思える。
「先輩……」
狭い傘の中、彼と目が合う。
視線が真っ直ぐに絡んだ瞬間、輝先輩が優しい笑みを浮かべた。
「誰よりも自分に負けたくなんだろ?」
「うんっ……」
視界がじわりと滲む。
胸が詰まって、喉の奥が絞まって、鼻の奥がツンと刺すように痛む。
「俺たちは今まで陸上や水泳っていう狭い世界だけで生きてきたけど、たぶん世界は俺たちが思ってるよりもずっと広いし、選択肢は無限に広がってる。だから、怖がることなんてない。美波にも道は見つかるはずだから、一歩を踏み出してみろ」
差し出された手が、私の頬に触れる。
その手はかじかんだように冷たいのに、なんだかとても温かく思えた。
「俺はちゃんと隣にいるから」
優しい言葉が力強い声音で紡がれた時、目尻から涙が零れ落ちた。
「うん……」
小さく返事をすれば、彼が大きく頷いた。
その瞳は私に寄り添うように優しくて、だけど大丈夫だと言わんばかりにひたむきだった。
いつの間にか雪はやんでいた。
曇り空にからは小さく光が漏れ、天使の梯子ができていた。
バカみたいかもしれないけれど、それがなんだか一筋の希望みたいに思えた。
私たちは、きっと自分で思っているよりもずっとちっぽけで。世界の片隅で泣き喚いていても、その声を拾ってくれる人はとても少ない。
だけど、私の傍には輝先輩がいる。
真菜だって、両親だって……たぶん、他にも私を思ってくれている人はいる。
だから、もう大丈夫。
動けなかったこの場所から踏み出すことを怖がらなくていい。
だって、ちっぽけな私たちの世界には、私がまだ知らないたくさんの希望の光があるはずだから――。




