埠頭
「着きました。私は近くの駐車場で待っておりますので、お帰りの際はお声がけを」
「送っていただき、ありがとうございます」
礼を言うと、霧矢はワゴン車から飛び降りた。続いて文香と霜華が降り、セイスに介助される形で、歩行杖をぎこちなく動かして西村が車から這い出てきた。全員が降りると、ゆっくりとした動きでワゴン車は走り去った。
「さすがは、執事殿だ。運転が丁寧だったな」
夜の潮風を吸い込みながら、埠頭で霧矢は独り言をつぶやいた。同じ場所でも昼と夜とでは、雰囲気も相当に変わっていた。
「さすが都会でも、埠頭の倉庫街となると、あまり明るくないぜ」
「僕たちの街は地面が真っ白だからな。雪明かりがない分、こっちの方が暗く感じる」
「それでも月は出てるし、街灯もあるから不自由はしないでしょ」
半月より少し大きな月を眺めたのち、霜華は視線を下げ、あたりを見回した。
「で、例の場所はどこなのだ?」
「今から案内する。ついてこい」
西村に配慮して、霧矢はゆっくりと歩き出した。足音をほとんど立てない霧矢とは対照的に、後ろからは杖がアスファルトを叩く音が規則正しく響いていた。
霧矢だけなら三分もかからないであろう距離を、十分近くかけて歩き、ようやく一行は目的の建物までたどり着いた。霧矢が勝手口の戸を開けると、西村とセイス、文香が先に中に入った。霧矢も中に入ろうとしたが、霜華は入ろうとはしなかった。
「どうした? 中に入らないのか?」
「一応、見張り役が必要かなって」
「ふむ、一理あるな。むしろ見張りよりも、受付係か。中里が来たとしても、入口に誰の姿もなかったら不審に思うだろうしな」
「西村、セイス、木村。僕たちは表で見張りをしている。何かあったら呼んでくれ」
「りょーかい」
中からセイスの声で返事が聞こえてきた。西村は特に何も口にはしなかった。ただ、杖で何かを二回ほど叩く音が響いた。霧矢はそれを了承の意と受け取った。文香は軽く背中で答えると、倉庫内の荷物を漁るように調べ始めた。
「やれやれ、どうしたものか」
腕時計を見ると、針は定刻の三十分前を示していた。
「やっぱり早く出過ぎたか、随分と時間が余っている」
「いいんじゃない? あんな息の詰まる屋敷に長くいるよりは、月光浴の方が」
「さもありなん」
霧矢は顔に笑みを浮かべると、寄りかかっていた壁から背中を起こした。
「ちょっと、あたりを歩いてくる。十分ほどで戻る。見張りは任せた、霜華」
「うん、わかった」
霜華は引き止めなかった。彼女もこの数か月で霧矢の行動パターンがわかってきていたため、口調に一切の不満要素は浮かんでいなかった。彼女は理解していた。混乱や不安を感じた時は一人で歩き回ることが、霧矢に一番の安らぎをもたらすということを。
羽田に向かう夜間飛行の光を眺めながら、霧矢は埠頭を歩き続けた。あたりに響くのは波の音だけで、都会らしからぬ静まり返った場所だった。
山里に住まう霧矢にとって、潮の香りに触れることは珍しい。ましてや、夜の海を生で見るのはこれが初めてだった。
(夜の海って、黒かったんだな。まあ、当たり前か……)
しばらく、立ち止まって揺れる水面を眺めていたが、そろそろ戻らなくてはいけない時間であることに気が付いた。霧矢は膿に背を向けると、再び歩き始めた。
「結局、何も浮かんでこないな……」
一介の高校生にとって、今回の一件は複雑すぎた。今後の展開すら予測できない有り様で、ましてや解決策など思いつくはずもなかった。
クリスのマリー暗殺が成功して時雨の当面の危機が消えるのか、それとも失敗して、時雨が捕まるのか、あるいは、十七年にも満たない不幸な生涯を近いうちに閉じるのか。
昨日の昼までは、心配事と言えば、いかに美香の暇潰しの相手をすることくらいだったのに、何がこうまで狂ってしまったのか。
しばらく歩いていると、人影が見えた。しかし、明らかに不審な人影だった。霜華、西村、文香、セイスのいずれでもない。時雨でもない。近くで顔を見なくてもわかる。
なぜなら、そのシルエットは子供のものだったからだ。身長は百四十センチほどで、風華の体型によく似ていたが、男女どちらかまではわからなかった。しかし、もう八時にもなろうというのに、こんな埠頭を小学生ほどの年齢の子が徘徊しているのは不自然だ。
(声をかけるべきか?)
その影に近づきながらも、霧矢はどうすべきか決めかねていた。というのも、その子の視線は霧矢を見据えていたからだ。無視してもよいのだが、何か引っかかる視線だった。
歩いているうちにお互いの距離は縮まり、顔がはっきりとわかる距離になった。相手は十歳を少し過ぎたくらいの男の子だった。霧矢は関わらないことを選んで、無言のまま通り過ぎようとした。しかし、相手はそれを望まなかった。
「ねえ、お兄さん」
話しかけられた以上、無視するのは失礼だった。霧矢は足を止めると少年の顔を見た。
「何だい」
「お兄さんは、ここで何をしているの?」
「待ち合わせだよ。君こそ、見たところ小学生だろう。こんな夜に一人でこんな場所をうろうろするのはよくない。もうすぐ八時になる。早めに家に帰った方がいい」
少年は無表情でうつむいた。そして、衝撃の言葉を口にした。
「その待ち合わせの相手、中里時雨、は来ないよ、お兄さん」




