要求
廃工場から出ると、霧矢と霜華は物陰に潜みながら周囲の様子をうかがった。
「カメラを向けていたってことは、ここの調査か?」
「そう考えた方がいい。まさか、こんなところでホームビデオの撮影とかはしないでしょ」
ひそひそと声量を抑えて、二人は背中合わせになる。
「そうだな。こんな埠頭でビデオを撮るなんて、普通の人間ならしないだろう」
「じゃあ、普通じゃない人間ならするってことになるね」
「つまり、裏社会の人間だ。クリスさんが使っているくらいだから、この界隈の埠頭は、裏社会の人間が入り浸っていると考えておかしくない」
霧矢は怪しい影がないことを確認すると、霜華の手を引っ張って誘導した。
「問題なのは、その連中が、僕らに関係あるのかないのかということだ。僕らに用事がないのなら、こっちから関わらなければいいだけの話だ」
「じゃあ、霧君に用事があるのなら?」
霜華の問いに霧矢は顔をしかめた。
「決まっている。君子危うきに近寄らずだ。つまり、連中がどちらにしても、結論は変わらない。僕はもうどうするかなんて決まっているんだ」
「早いところ、ここから離れる、だね?」
霧矢はうなずくと、顔だけ壁から出して、再び周囲の様子を見た。
「よし、誰もいない。さっさとずらかるぞ」
早歩きで二人は埠頭から通りに出ると、そのまま駅に向かった。後ろを確かめても、誰かに後をつけられている形跡はなく、人通りの多い場所まで来て、二人は立ち止まった。
「さて、問題は、果たして、こんな場所に西村を連れてきて良いのかだが……」
「そんなこと言っても、もうどうしようもないでしょ。彼の決心は固いし」
「ですよねー。だったら、僕は親友の意志を尊重するしかないですねー」
棒読み口調で霧矢は答えた。霜華は苦笑いすると、一歩前に踏み出した。
「ところで、これからどうするの?」
両手を広げながら片足を軸に半回転し、霧矢の方を向くと霜華は笑顔を浮かべた。
「麻布の美香の屋敷に戻るか、西村の約束の時間まで適当に時間を潰すかのどっちかになるな。僕としては……」
美香の屋敷に戻ったほうがいいと言う前に、霜華が先に口を開いた。
「だったら、一緒に散歩でもしようよう。私、鎌倉に行ってみたい」
「鎌倉? 東京都心とか横浜じゃなくてか?」
霜華は微笑を浮かべた。霧矢としても別に構わないと思っていた。しかし、それでよいと答える前に、霧矢の携帯電話が着信音を響かせた。
「誰から?」
「……お嬢様からだ」
苦々しい口調で霧矢が答えると、霜華の表情も苦々しいものになった。霧矢は逡巡したものの、結局通話ボタンを押した。
「もし、わたくしめに、何か御用―ごやう―でもおありでせうか。おぜうさま」
「歴史的仮名遣いをそのまま発音しないでちょうだい」
「それは失礼つかまつった。遺憾にて候。お詫び申す」
「今は笑いを取ってもらう必要はないから。それよりも、用事は終わったの?」
「一応は。例の場所の下見と、注意すべきポイントは押さえた」
平時の口調を保つことを心がけながら、霧矢は美香に答える。美香はまだ騙されているらしく、霧矢に対しての口調に不満の色は見られない。
「面倒なことにはなってない?」
「特には。用事も済んだことだし、霜華と少し街をぶらついてから帰る」
その瞬間、霧矢は口を滑らせた自分を責めた。
「塩沢さんは?」
「もう別れた。これから忙しくなるみたいだから、もう関わるなとも言われたな」
平然とした口調で霧矢は嘘をついた。美香には見破られてはいないようだが、先程口を滑らせたため、別の切り口から美香は攻め込んできた。
「霜華さんとデートするつもりなのね?」
「そういう意味でとらえているのなら、大きな誤解だと言っておこう」
「何が誤解だと言うの。女の子と二人で街をぶらつけば、もうほとんどデートでしょうに」
とげとげしい口調で美香は責めてきた。霧矢は辟易した口調で言い返す。
「だったら、女性と一緒に歩くだけでそれはデートになってしまうだろう。霜華は用心棒代わりに連れてきただけで、そんな風にとらえられるのは心外だ」
「とにかく、さっさと帰ってきてくれないかしら。夕食の支度もするように伝えてあるし、龍太さんたちを例の場所に送る用意もできているわ」
「別に、地図はそっちにもあるんだから、僕たちが戻る必要もないんじゃないか?」
「実際にその場を見たあなたがいないと、道に迷う可能性もあるでしょうに」
「そこまで複雑な道程ではなかった。迷う要素なんて皆無だ」
きっぱりとした口調で言い返した霧矢に、美香は完全に手段を選ばなくなった。
「…さっさと帰ってこないと、私、博士にあなたに辛い目に遭わされたと訴えるわ」
「何だって? おい、ここで父さんを持ち出すのはフェアじゃないだろう!」
「博士に『もう、お嫁に行けません。霧矢さんに責任を取ってもらえないのなら……』と」
「いい加減にしろよ。さては、お前、晴代に入れ知恵されたな?」
声を荒げた霧矢に、道行く通行人は何事かと彼を見つめた。しかし、霧矢は気に留めることもなく、大声でまくしたて続けた。
「どうせ晴代が、そう言えば僕は折れるとでも言ったんだろう。あいつは他人の色事や恋愛沙汰に首を突っ込むことが三度の飯よりも大好きだからな」
「相変わらず、洞察力はすごいのね。その通りよ」
「だったら!」
「でも、私とあなたと彼女の問題が色事や恋愛沙汰であることはあなたも認めるのね?」
「なっ……それは、その……」
言葉に詰まった霧矢に、美香は得意げな口調でとどめの文句を突きつけた。
「その言葉を取り消したいのなら、さっさと戻って、ティータイムでもしましょう。それで、さっきの発言はなかったことにしてあげるわ」
霧矢が言い返す前に、美香からの電話は切れた。霧矢はしばらく考え込んだが、仕方なく霜華の方へ向き直った。
「すまない。帰らなきゃならない」
霜華の機嫌が直るのは果たして何時間後になるのか。霧矢は考えたくもなかった。




