下見
「おい、霜華。あんまりくっつくな。いくら人目がないからって……」
嬉しそうな表情で、霜華は霧矢の腕に抱き付いていた。霧矢は苦笑いを浮かべて、霜華を振り払った。
渋谷から電車に乗り、二人は鶴見の廃工場跡の近くまで来ていた。
「ここで、待ち合わせか。昼間だから、視界は利くけど、夜になるとどうなるか……」
廃工場跡は埠頭に建っているため、あたりを流れる風には潮の香が含まれていた。
「結局、霧君も会いに出かけるの?」
「まあ、一応。会わずに後悔するくらいなら、会っておこうかと。そもそも、最初から会わないつもりなら、わざわざこんなところには来ないぞ」
霜華の質問に、霧矢は深く考えずに答えた。本当は言葉とは裏腹に、どうするかなど決めていなかったのだが、これ以上、結論を先送りにするのは気が進まなかった。
「まあ、西村が二人きりにさせてくれと言うのなら、無理についていくつもりはないが」
「でも、セイスは確実についていくはずだよね」
「それは、そうだろう。そうじゃなきゃ、万が一の時、奴の身の安全は誰が守るんだ?」
霧矢は適当に返事をすると、壁の塗装があちこちで剥がれている工場の裏に回り込んだ。ひび割れた窓から中を覗き込むと、休憩室と思わしき部屋が視界に入ってきた。
「意外と中は片付いているな。それだけ、頻繁に使っているってことなのか?」
中にはテーブルと数脚の椅子があり、それもそれなりに綺麗なものだった。確かに天井や梁にクモの巣などが見受けられるが、決して中は埃だらけというわけではない。
「それよりも、入口はどこなの?」
霜華はあたりをきょろきょろと見回す。霧矢は再び入り口を探して建物のまわりを歩き出した。霜華も霧矢に続いて後ろからついてくる。
しばらく歩いていると、鉄製のドアが視界に入った。ドアノブを捻ってみると、鍵がかかっておらず、そのまま開いてしまった。不用心さに呆れるとともに、蝶番の油が切れているのか、あたりに不快な金属音が響き渡った。
「出入口はここだけなのか?」
霧矢に続いて、霜華が中に入る。壁のスイッチを操作すると、驚くべきことに、電気系統はまだ生きていて、薄暗い内部を電灯の光が照らした。
「廃工場というよりは、使っていない倉庫って言った方が正しいような気がする……」
あたりには段ボールや木箱が積み上げられていた。念のため、中身を調べてみるも、幸いなことに、銃火器や薬物のような違法な代物は確認できなかった。
「何かの電子部品とか印刷用紙みたいだな。別に危険なものじゃない。そこは一安心だ」
霧矢はほっと息を吐くと、あたりを見回した。
「出入口は、ここだけみたいだが、一応、シャッターはあるみたいだな。だけど、人の出入りだけで、わざわざ開閉するのも非効率か」
「この配電盤に開閉スイッチがあるよ。でも、長い間使われてないみたい」
霜華が指さしたスイッチにはクモの巣が張っていた。霧矢は腕組みすると、物置と化している場所から離れ、先程覗き込んだ休憩室につながる戸を開けた。
部屋の中は窓からの天然の光が差し込んでおり、無機質で暗い倉庫とはまた違った印象を受けた。
「会うとするなら、ここでいいだろう。そこまで汚くはないし」
「窓側でなければ、角度的に狙撃も難しいだろうね。まあ、爆弾を投げ込まれてしまったら、どうなるかわからないけど」
霜華の指摘に、霧矢は少し不安になるのを感じた。
「…本業の殺し屋に狙われてるんだよな。それも、塩沢よりもっと過激な連中に」
「問題は、セイスや西村君が、裏社会のガイドラインの、巻き込んではいけない『一般人』に当たるかだよね。当たらないとなったら、きっと、彼女もろとも爆殺されても…」
霜華は霧矢に背を向け、ひびの入ったコンクリートの壁の方を向いてつぶやいた。霧矢からは彼女の表情をうかがい知ることはできない。
「不吉なことを言わないでくれ。僕は人が死ぬのを見るのはごめんだ」
霧矢は休憩室の流し台に近づくと、水道の蛇口を捻った。透明な水道水が流れ出したので、手でその水をすくって、何度か顔にぶつけた。
ポケットからハンカチを取り出し濡れた顔を拭くと、少し頭がすっきりするのを感じた。
「こんなところで、顔を洗わなくても……」
呆れた顔で霜華はつぶやくが、霧矢は何も答えなかった。そのまま、背を向けると、部屋を出ようとした。その瞬間、霜華が声をあげた。
「誰!」
霧矢が振り向くと、窓から人影が走り去るのが見えた。
「……一応、許可というか、暗黙の了解は得ているから、ここにいても問題ないはず…」
「この建物に関して、ちゃんとした使用権をクリスさんが持っているならね」
霜華は窓から外の様子をうかがったが、もはやそれらしき人影は見えなかった。
「別に、いくら人気がないといったって、ここは埠頭なんだ。一人くらい人がうろついたって、別に、それほど騒ぐことでもないだろうに……」
「その人が、こっちにカメラを向けていたとしても?」
「カメラだって?」
予想外の言葉に、霧矢は面食らってしまった。霜華は心配そうな表情を浮かべて、霧矢の方に顔を向けた。
「とりあえず、外に出よう。もうここに用はないし、できるだけ早くここから離れよう」
霜華はうなずくと、霧矢に続いて部屋から出た。




