脱出
もはや何を言っても無駄だと悟った霧矢は、無言で椅子に座ってふんぞり返っていた。薄目で正面を眺めると、不機嫌な表情を浮かべた霜華と、目を輝かせている晴代かいた。
「こんな素敵なイタリアンレストランで食事ができるなんて……」
「喜んでいただけて何よりですわ」
クリスの事務所を後にした霧矢たちは片平家の車に無理やり乗せられ、池袋駅を経由し、気が付いた時には、六本木のイタリアンレストランにいた。
「……僕は、先に帰らせてもらっていいか?」
「だったら、私も霧君と一緒に抜ける」
霧矢はこっそりと席を立って店から出ようとした。しかし、美香が逃げ出そうとする霧矢の服の裾をつかんで席に引き戻した。それを見て、同じく席を立とうとした霜華も、不本意そうな表情を浮かべたものの、席に腰を下ろした。
霜華は険しい表情で美香をにらみつけたが、美香は涼しい表情で受け流した。
「うわぁ……女の戦いだねぇ……」
「ああ、三条め。いい気味だぜ、なんちゃって……」
晴代と西村は霧矢の顔をちらちらと見ながら、ヒソヒソ話をしていた。霧矢は二人をにらみつけたが、二人は妙な笑みを浮かべるだけだった。
霧矢は天井を見つめるとため息をついた。それと同時に、全身に鳥肌が立つのも感じた。一刻も早く、ここから出たいという霧矢特有の高級な店に対するアレルギー反応だ。
拒絶反応による寒気に耐えかねて、霧矢はズボンのポケットに手を突っ込んだ。しかし、そこには財布と携帯電話があるだけだった。
しかし、そこで霧矢の脳が珍しく回転した。
(…携帯電話……これだ!)
霧矢は美香の目を盗んで、携帯電話のアラームを五分後にセットすると、再びポケットに戻した。視線を美香に走らせてみると、気付いている様子はない。美香は、お嬢様口調のまま、晴代と機嫌よく話していた。
視線を正面に戻すと、霜華が自分に恨みがましい視線を向けていた。霧矢はやや表情を和らげると、霜華に親指を見せた。霜華は霧矢の意外な行動に面食らった。
「霧君?」
小さな声で霜華は問いかけたが、霧矢は笑みを浮かべて首を縦に振るだけにとどめた。
(あと五分……あと五分……)
期待すればするほど長く感じるのは誰でも同じだが、この五分間は霧矢にとって非常に長く感じられた。携帯電話が壊れているのではないかと疑う寸前になって、ようやくアラームが作動し、霧矢が着信メロディーにしている曲が鳴り響いた。
閑静な雰囲気の店の中に場違いな電子音がこだまし、霧矢は慌てたふりをしてその場から離れて、化粧室に駆け込んだ。
携帯電話のアラームを切ると、霧矢は化粧室の鏡の前に立ってため息をついた。同じように鏡に映る自分の姿もため息をつく。しかし、その姿は高校生とは思えないほど、疲れ果てて老けた顔をしていた。
(……大学生でも通るな。この顔じゃ)
そんなことを考えていると、ふと笑みが漏れた。しかし、笑みを浮かべた瞬間、くたびれていた自分の顔が少し若さを取り戻した。それを見て、霧矢はわずかではあるが、やる気が湧いてくるのを感じた。
「…美香には悪いが、今日は霜華を選ばせてもらうとしようか」
独り言をつぶやくと、霧矢は壁に寄りかかった。腕時計の秒針が回るのを眺め、それが三周ほどしたところで、霧矢は化粧室から出た。
(さて、僕の芝居の腕は、どれくらい上がったかな……)
テーブルに戻ると、前菜がすでに並んでいた。美香は相変わらず余裕の表情で、霜華はわざと美香と視線を合わせないように、反対の方向を向いていた。
霧矢は平常心を保ちながら、美香の前に立った。
「ああ、美香。すまないんだが、急用ができた。抜けさせてもらう。それと、ちょっと荒っぽいことになるかもしれないから、霜華も連れて行く。悪いな」
霧矢は霜華に手招きした。霜華は、当惑した表情を浮かべていたものの、それでもゆっくりと席から立ち上がった。
「急用、荒っぽい?」
「…塩沢から電話があった。今夜の計画について伝えておきたいことがあるらしい」
「ちょっと待ってくれ。だったら、俺も行かないと」
その言葉に反応したのは、美香ではなく西村だった。霧矢はゆっくりと首を横に振った。
「急ぎの用事だから、動ける人間だけにしてくれとのことだ。塩沢もお前は連れてくるなと言っていた。重要なことなら、きちんと後で知らせる」
霧矢は美香をにらみつけると、殺気を含ませた声で告げた。
「いいか。これは、訓練された者以外は危険だ。絶対についてくるなよ。本当は、僕だって行きたくはないんだから」
美香は不満な顔をしていたが、霧矢は無視した。そのまま、霜華について来るように言い、霧矢は早歩きで店を出た。
駆け足で店から出て、尾行されていないか注意しながら、霧矢は地下鉄の駅に駆け込んだ。人気のない通路の柱の陰に隠れて、ようやく安堵の息を吐いた。
「ねえ、霧君。塩沢さんの用事って何なの? 危険とか言ってたけど」
「ああ、ありゃ、嘘だ」
霧矢の予想外かつ素っ気ない返答に、霜華は目を丸くした。霧矢は続ける。
「ああでも言わなきゃ、抜け出せなかっただろう。美香には悪いことをしたが、僕はこれ以上あんな重苦しい雰囲気の場所に閉じ込められるのはごめんだ」
「じゃあ、何で私まで連れ出したの?」
「…美香と一緒に食事をしたかったのか? 極上のランチも最悪な味になるぞ」
霧矢の言葉に、霜華の顔が少しほころんだ。その一方で、霜華が緩みそうになる顔を必死に押しとどめているのも感じ取った。
「ま、でも、一応、鶴見の工場の下見にでも行っておくか」
「何でそんなところに?」
「それは、移動しながら話すことにする。それよりも、久々の二人きりでの散歩なんだから、もう少し、気楽にしとけ」
霜華はやや顔を赤らめると、小さな声で、ありがとう、と言った。




