保険
「霜華と契約してほしいだって?」
「今のところは特に必要ないけど、もしも、敵の本拠地に乗り込むのならね。でも、そこのお嬢様のアイディアのおかげで、今となっては、特に必要はなくなってしまったから、もう気にしなくていいよ」
「向こうから出向いてきてくれるなら、そこまで危険じゃないってことか」
セイスはうなずく。霧矢は得意げな表情を浮かべている美香を一瞥すると、心配事が一つ消えたことで穏やかな表情になった西村に質問した。
「お前一人で行く気なのか?」
「それは無理。私もついていく」
西村か応える前に、セイスが割って入った。西村はしばらくためらっていたが、やがて、霧矢の顔を見据えると、やや遠慮がちに尋ねた。
「…三条、お前も、来るか? 中里に会いたいのなら……」
予想外の質問に、霧矢は戸惑ってしまった。時雨の問題は西村龍太だけの問題であって、自分には関係のないことだと、ずっとそう考えていたからだ。
「中里に会いたいかだって?」
霧矢は腕組みすると、数秒の間、考え込んだ。しかし、決めることができない。
「…その答えは、また後にさせてもらう」
適当に答えを濁すと、霧矢は時計に目を走らせた。そろそろ、霜華に連絡しなければならない時刻だった。
「セイス、霜華を帰しても問題ないんだな?」
「いや、ちょっと待って。万が一の時のため……霜華は……」
セイスは煮え切らない表情を浮かべると、腕を交差させてノーと言った。
「どうしてだ。霜華はもう必要ないんじゃなかったのか?」
「……何が起こるかわからないから、万が一の保険。霜華がいなくなると困る。別に契約はしなくてもいいけど……霜華は動かせるようにしておいて欲しいの」
霧矢がポケットから携帯電話を取り出そうとしていると、人の話には首を突っ込むまいとしていたのか沈黙を続けていたクリスが口を開いた。
「君たちの話している霜華とは、北原霜華のことかい? あの有名な」
その瞬間、全員の視線がクリスに集中した。
「有名? 霜華ってそんな有名人? どこにでもいそうな水のハーフじゃないの?」
意外に思ったセイスはクリスに質問する。しかし、クリスは首を横に振った。
「ちょっと待って、クリスさん。僕と一緒に外で」
クリスは裏社会の人間であるため、知っていたとしても不思議ではない。しかし、ここで暴露されてしまっては面倒なことになりかねないので、霧矢は慌ててクリスを引っ張って廊下に連れ出した。
「何だい。いきなり」
「霜華がどういう風に有名なのか、まず、僕だけに教えてください」
クリスは面食らったような表情を浮かべると、霧矢の目をじろじろと見た。
「……君は知っているんじゃないかな。彼女の契約主も同然なんだから」
やや挑戦的な口調でクリスは答えた。霧矢は唾を飲み込むと慎重な口調で返す。
「多分知っていると思います。しかし、それが『あること』だったのなら、あの三人に知られてしまうのは困ります。僕は今まで、自分から人にそのことを話したことはないし、話すつもりもない。霜華だって、そう思っているはず」
霧矢の慎重な声に、クリスは同じくらい声を低くすると、霧矢の耳に近づいた。
「…アブソリュート・ゼロ。君は、それを秘密にしているんだね?」
「はい」
霧矢は一言だけで答えた。クリスは息を吐くと、霧矢に背を向けた。
「僕に何か言う資格はないけれど、それを知っていて、彼女を置いているんだから、それだけ、彼女のことが気に入っているんだね」
やや茶化すような口調だったが、クリスに言われても別段腹は立たなかった。霧矢はドアの前に立つと、クリスに頭を下げた。
「このことは、内密にお願いします」
「わかったよ。君たち二人の生活を脅かすつもりはないから、安心しなよ」
クリスは気楽な口調で答えると、ドアを開けて事務所に入って行った。霧矢も安心して息を吐くと、ゆっくりとした足取りでソファーに戻った。
「何だったんだよ。いきなり」
「…何でもない。ちょっと、気になることがあって聞いておこうと思ったんだ」
霧矢は感情を押し殺した声で、西村の問いを素っ気なく流した。西村は怪訝そうな表情を浮かべていたが、これ以上、食い下がることはなかった。
「それで、霜華を帰すなと言うことだが、晴代はともかく、木村はどうする?」
「……文香の魔章は頼りになるかもしれない。保険としては有効」
セイスは完全に時雨のことを信頼していないようだ。抗争になる可能性は決して少なくないと考えている。そんなセイスを、西村は複雑な表情で見ていた。
「だったら、もうこの際、全員とも帰さない方がいいんじゃないか? 上川一人だけで帰らせるのも、あれだし……」
「滞在費用をどうするつもりだ。それに親だって心配するだろうし」
霧矢の指摘に西村は黙ってしまう。しかし、美香が割って入った。
「…片平家が面倒を見ますわ。どうぞ、わが家をお使いください」
それだけ言うと、美香はスマートフォンを取り出し、電話をかけた。
「川内、今すぐに、五人分の客室を用意なさい。それと、今すぐ、渋谷まで車をよこしなさい。大人数乗れるものを、大至急」
霧矢は呆気にとられて何も言えなかった。ようやく美香が何をしたのか把握した時には、美香はすでに通話を終えていた。
「美香、お前……」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、美香は霧矢にウインクした。




