質問
渋谷の裏路地に入り、しばらく歩いていると、やがてクリスは小さな雑居ビルの入り口の前で足を止めた。建物は少し古めで安っぽさも感じられる。
「ここの三階にある。さっきも言った通り、僕の事務所はあんまり広くないし、招かれざる先客もいる。不快な思いをするかもしれないが、そこはご容赦願いたいな」
クリスはため息をつきながら語った。彼の表情は嫌な人間の話をする時のものだった。
「先客?」
「君たちも会ったことがある人物だ。君たちが彼のことをどう思っているかは、僕にはわからないけれど、少なくとも僕は嫌いな人物だね」
「まさか……」
やっと酔いが治まり、顔色もよくなってきた霧矢だったが、また顔色が悪くなった。その様子を見て、残りの三人も先客が誰なのかを察した。
「ああ……彼か……」
セイスは苦笑して腕組みした。西村も同じように苦笑いを浮かべた。その一方で、美香は笑顔を浮かべ、早く中に入りたいとまで言った。
薄暗い雑居ビルのエントランスから、古臭いエレベーターに乗り、事務所のある階まで上がる。廊下を歩き、クリスはいくつかある部屋のドアの一つを開けた。
「ここだ。狭いかもしれないが、そこは、我慢してほしい」
中に入ると、ソファーに腰かけた短髪の男が、缶コーヒーをちびちびと口にしていた。クリスはうんざりした表情を浮かべると、窓に近寄り空気を入れ替えるために開け放っていた窓を閉めた。都会の喧騒の音が小さくなる。
「塩沢、窓側に座ってくれ。四人が座れなくなる」
お茶の入ったペットボトルを冷蔵庫から取り出し、人数分のグラスに注ぎながら、クリスは塩沢の方を向くことなく指示した。塩沢も返事をすることなく、入口側のソファーから窓側のソファーに席を移した。
「座ってくれ。今、お茶を入れるから」
「いえ、どうもお構いなく……」
西村はぎこちなく答えると、ソファーの一番下座に腰かけた。その隣にセイスが座り、さらにその隣に美香が座る。三人用のソファーが机を挟んで二つあるが、霧矢は塩沢の隣に座る気にはなれなかった。やたら大量の週刊誌がしまわれている本棚の近くにあったパイプ椅子を引き寄せて、西村の斜め後ろに座った。
塩沢は話しかけられるまでは自分からは話さないつもりなのか、黙ったまま飲みかけの缶コーヒーの缶を揺らしていた。視線は自分の膝に固定されている。
沈黙が流れる中、口火を切ったのは美香だった。
「昨日はどうもありがとうございました。塩沢さんも、お仕事でお忙しいようですね」
「……まあ、そうだな」
塩沢の返事は淡々としたものだった。美香は少し表情を暗くしたが、会話を続ける。
「塩沢さんとクリスさんは、どういったご関係なんですか?」
「元同僚さ。僕がこうやって相川探偵事務所から独立するまでのね」
塩沢の代わりにクリスが答えた。お茶の入ったグラスと茶菓子の入った皿をテーブルに置き、クリスは塩沢の隣に腰を下ろした。
「じゃあ、古町水葉とも知り合いなわけだね?」
早速、茶菓子の入った皿に手を伸ばしながら、セイスは尋ねる。
「ああ、彼女も元同僚。塩沢よりもさらに長い付き合いになるけどね」
「それでは、警視庁の内野さんもご存知なのではないですか?」
「そうだね。仕事柄、彼との付き合いは多い。君たち二人も昨日、彼と会ったようだね」
クリスは微笑を浮かべると、素直に答えた。質問に対してためらうこともなく、正直に答えるクリスが気に入らないのか、塩沢はフンと鼻を鳴らした。
「何だい。文句でもあるのか?」
「……妙に質問に対して誠実に答えるなと思っただけだ。そこまで丁寧に応対するなんて、お前らしくもない。どういう風の吹き回しだ?」
「……不誠実に答える必要もないからだ。ここにいる面子は全員、裏社会の事情についてある程度のことを知っているんだから、特に隠す必要もない。それと、君は今、客の一人に過ぎないんだから、少なくとも僕が話している間は黙っていてくれないか」
ぴしゃりと言い放ったクリスの言葉に、塩沢はため息をつくと顔をそむけた。ふと後ろを見た西村は、霧矢の表情が明るくなるのをはっきりと確認した。
クリスは咳払いをすると、西村の目を見据えた。
「そう言えば、文香君はどうした。彼女も来ると思っていたけれど……」
「文香は来ないよ。霜華、晴代と一緒にいる。池袋で待機してるよ」
意外な答えに、クリスは目を丸くした。同じく、霧矢も驚きの表情を浮かべた。
「晴代はわかるとしても、木村が来ないだって? 中里がらみの話なのにか?」
「……少しの間、考えたいことがあるから、そっとしておいてほしいって言ってた。帰るべきかどうか、迷ってるみたいだから……」
セイスは人を気遣うような口調で霧矢の問いに答えた。霧矢は返す言葉が思いつかず、そのまま沈黙していた。その沈黙を、話題を進めてもよいという意味にとらえたのか、クリスは再び咳払いして口を開いた。
「それなら、それで構わない。話を続けさせてもらう。龍太君」
自分の名前を呼ばれたことで、西村は少しびっくりして背筋を伸ばした。その動きに連動して、傷痕に痛みも走った。
「聞きたい内容については、昨夜の電話で承知している。で、具体的に、何について知りたいのか。仮に依頼をしたいのなら、僕に何をしてほしいのか。それを聞かせてくれ」
西村はしばらくの間、視線を膝の上に落としていた。
具体的にと言われても、聞きたいことが多すぎて何と言ったらよいのかわからなかった。この場にいる全員の視線が西村に集中したが、当の本人からは、喉に何かが詰まっているかのような、かすれたうめき声しか出てこない。
もやもやする思考の中で、最も聞きたいことを選ぶ。そして、数分間の静寂を経て、その順位が確定した。西村は深呼吸すると、クリスの目を見据えた。
「中里時雨に会うためには、どうすればいい?」
覚悟を込めた声に、全員が目を見開くとともに、沈黙が流れた。




