英雄
「感謝する。確かに電話番号は書き留めた。では、良い夜を」
文香は通話を終えると、メモ帳から数字の書かれた紙を破り取った。部屋から出ると、廊下で待っていた二人組にメモ帳の切れ端を押し付けた。
「三条から聞き出した。西村よ、この電話番号に連絡するのだ」
「……ああ、助かるぜ。ありがとうな」
「…それにしても、別に今すぐでなくとも明日でもよいだろうに。むしろ、連絡したら間違いなく、明日来てくれと言われると思うのだが……」
文香の指摘に、西村は何も言い返さなかった。
「…まあ、アポを取るなら、早ければ早い方が良いのかもしれないな……」
文香は西村とセイスの両者を交互に視線を走らせると、特に話すこともなくなったので、一言「おやすみ」とだけ言い残すと、そのまま部屋に戻った。
ドアを閉めると、文香はゆっくりと息を吐いた。
「……本気なんだね? 西村君は……」
部屋の奥から問いかける憂いを含んだ声が響いた。文香はゆっくりとした足取りで自分のベッドまで歩くと、問いかけの声の主とは背を向ける形で座った。
「……本気でなければ何だと言うのだ。あれこそ、まさに男の覚悟というものだろう」
「西村君って、勇敢な人だよね。無謀でもあるけれど……」
「百も承知だ。私が今までに出会った人間の中で、奴より積極的な人間はいない」
「魂を燃やして、喜びも悲しみを誰よりも情熱的に感じてる。誰に対しても心を開いて、熱い思いをぶつけてくれる。例えて言うのなら、一昔前のヒーローみたいな……」
「珍しく一般人にもわかりやすい例えだな。晴代にしては珍しい」
「ねえ、文香。いくらなんでも最近の言動は、霧矢の影響を受けすぎじゃない?」
憤慨したような口調で晴代は文香に不満をぶつけた。文香はわざとらしく咳払いすると、カバンから本を取り出して読み始めた。
「何の本読んでるの? 文庫本なんて、文香にしては珍しい」
嫌味を込めた口調―晴代曰く霧矢の影響を受けた口調―で彼女は尋ねてきた。非常に不愉快な口調ではあったが、文香は無視するまでには及ばないと考えた。
「……贔屓の小説家の新刊だ。大学の書店で偶然見つけた」
「どうせ難しい用語が羅列してある、その筋の人しかわからなくて一般受けしないマニアックな小説なんでしょ?」
本にはブックカバーをかけてあるので、周囲からタイトルをうかがい知ることはできない。それでも、晴代の指摘は大筋で当たっていた。
「そうだな。ただ、決して一行も読んでいない人間に酷評されるような稚拙な内容の小説ではないということは断言できる」
きっぱりとした口調で文香は言い切った。晴代は慌てて取り繕う。
「そ、そんなことはわかってるよ。いくら、あたしだって、読みもしない本をディスったりはしないよ。いくらマニアックなものだとしても…」
文香は親友に疑惑の視線を向けた。晴代はわざとらしく笑うと、文香に背を向けた。
「……馬には乗ってみよ。人には添うてみよ。昔からの格言だ」
言い放った後で、自分自身でも説教臭すぎる台詞だったと少しだけ後悔した。晴代は居心地が悪くなったのか、シャワーを浴びるとだけ言うと、そのまま浴室に消えた。
「一昔前のヒーローか……」
浴室から水音が響く中、文香は晴代の言葉をつぶやいた。
「それで救えるのなら、それでも良いのだか……」
独り言であるにもかかわらず、文香はそこで言葉を切った。口に出せば、それが現実になってしまうような気がしたからだ。基本的に文香の思考は唯物論に近い。それでも、言霊というオカルト的な思考を排除することはできなかった。
「時雨は……きっと……」
それも、口に出さない方が良いと思って、文香は再び言葉を切った。
「……死なない。時雨は死なない。西村も死なない」
言霊など信じていないし、願掛けに意味があるとも思っていない。だが、文香は意味もなく、自らの希望を口にしていた。
黙して座していると、ドアがノックされた。ゆっくりとした足取りでドアを開けると、杖を持ったヒーローがいた。
「……とりあえず、礼を言いたいんだ」
「……何のために?」
「会ってくれるらしい。今すぐは無理でも、明日の午前九時にハチ公前に来るようにって」
「西村よ。それだけのために、わざわざ?」
「…ああ、すべてはお前の協力のおかげだ。後は、俺が何とかする。だから、礼を言いたいんだ。ありがとう」
西村は深々と頭を下げた。文香は何も言えず沈黙していた。
「場合によっては、俺は明日以降も東京に残る。だから、お前と上川の二人で、浦沼に戻ってくれ。三条に協力を頼むかどうかは、まだ決めかねているけどよ……」
「私の出る幕ではないのか?」
文香は無表情のまま、自分の出番について尋ねた。西村は表情を強張らせ、しかし、そっと優しくつぶやくようにして答えた。
「……それは、お前次第だ。俺は止めもしないし、誘いもしない」
「……わかった。では、この話は終わりにしよう。とりあえず、晴代にはそのことを伝えておく。お前も、明日に備えて、体を休めておくのだな」
文香は複雑な気持ちを抑えながら、できるだけ口調をいつものそれに近づける努力をした。それでも、幾分かの自分の気持ちは相手に漏れてしまっていたかもしれない。
「もう一度言わせてくれ。ありがとうな」
西村は強張らせた顔を和らげ、文香に微笑みかけた。文香に一礼すると、西村はゆっくりと客室のドアを閉めた。
ドアを前に、文香は不穏な心地で、しばらくの間立ち尽くしていた。部屋の中にはシャワーの水音だけが響いていた。




