天秤
「文香、さっきからずっと黙っているけど……」
「………今の私の顔が、楽しく雑談に興じることができるような顔に見えるのか?」
文香は目を閉じて腕を組んだまま、ベッドに腰掛けていた。その表情は硬く、口は真一文字に結ばれていた。
「それは…そうだけど、でも……」
「……わかっている。こうしていたところで、事態が解決に向かうわけではないことは」
文香はゆっくりとまぶたを開くと、自分の足元に視線を向けた。眼鏡の奥にたたえた瞳の光は、傍の晴代からはいつもより弱々しいものに見えた。
「まさか、東京で放火魔と化していた、そして、霜華と戦っていたとは……」
「まあ、霜華ちゃんなら、勝ててもおかしくはないけど……」
「三条も塩沢と会って、それらしい話題について触れている。この情報はほぼ間違いなく正しいだろう。今のところ、辻褄の合わないところはないのだから」
文香は晴代とは目を合わそうとはしない。そのまま、自分の足元を見ながらひとりごとのような口調でつぶやいている。
「マリーが死ぬか、時雨が死ぬか、捕らえられるか。いずれにしても茨の道だな」
文香のつぶやきに対して、晴代は黙っていた。
正直なところ、晴代自身も自分が中里時雨という人間に対して、どのような感情を抱いているのかはっきりしていなかった。
危うく殺されかけるところではあったが、憎き敵とまでは思っていない。かといって、好印象を持っているわけでもない。彼女の境遇は同情するに値するが、彼女のために、何か積極的に動く意志があるかといえば、それは否だった。
しかし、晴代にとって、そんなことは些末な問題でしかない。それよりはるかに重大な疑問があった。
(霧矢や文香は、あたしとあの子、どっちをより大切だと思ってるんだろう……)
あの事件が起きるまでずっと頭から離れなかった問題だったが、事件が起きて時雨が失踪して以来は、もはや疑念としては無意味なものとなったため、考えなくともよくなっていた。しかし、つい数十分前の会話によって、再び意味のある疑念となってしまった。そして、その疑念は頭に取り付いてなかなか離れようとしない。
聞いたところで、どちらも同じように大切だという答えが返ってくることは、容易に予想できた。しかし、それは建前でしかないことも容易に予想がつく。きっと、本音ではどちらか一方をより大切に思っているのは間違いない。
その「本音」の部分で、自分が切り捨てられていたらと思うと、何故か心が抜け殻になっていくように冷え冷えとした感覚が走った。
「まあ、もうあたしたちにどうこうできるような問題じゃなくなったのなら、気にしても意味ないよ。だから……」
晴代はそこで言葉に詰まってしまう。その先の言葉が出てこなかった。
「だから……」
だから、どうすればよいのだろうか。
「クリスに任せて、私たちはさっさと浦沼へ帰るべきだ。そう言いたいのだろう」
「え、あ、その……」
文香は淡々とした口調でそう述べた。しかし、晴代は自分自身が本当にそう思っているのか、はっきりとわからなかった。
続ける言葉もなく、二人の間には沈黙が流れた。数秒間の沈黙の後、文香はため息をつくと、苦々しい口調でつぶやいた。
「……そう割り切れたのなら、私はここまで頭を抱える必要もないのだが……」
晴代は何も言えなかった。再び二人の間に沈黙が流れる。
重苦しい沈黙に耐えかねて、晴代は客室に備え付けてある湯沸かしポットからカップにお湯を注ぐと、緑茶のティーバッグの包装を乱暴に破り捨てた。取り出したティーバッグをカップに放り込み、かき混ぜることなしに熱い液体を口に含んだ。
(苦い……)
湯冷ましをかけなかったために、その液体は苦味が強かった。その味は霧矢が入れる緑茶のそれによく似ていた。緑茶を入れるときは湯冷ましをかけろと、彼に何度も言ってきたが、それを改める様子はいまだに見られない。
ただ、その話題は時雨に関しての話をしていたときにも触れていたのは覚えている。
(霧矢はどうする気なんだろう……)
顔を上げると、鏡には憂いをたたえた自分の顔が映っていた。その後ろには親友の黒髪がぎこちなく揺れていた。
「ついでだ。私にもお茶を頼む」
「……自分で入れなよ」
不平を口にしたものの、それでも晴代はもう一つカップを用意してお湯を注いだ。




