弱音
「だから、僕を馬鹿だと言うのか? 文香君にその話をしたことで」
「ああ、霧矢君たちがこの事件に首を突っ込んでくる可能性がある。いや、間違いなく、彼らなら突っ込んでくる」
塩沢は淡々とした口調で説明していたが、クリスとしては憤りを抑えることができなかった。馬鹿と罵られるくらいのことは何とも思わないが、塩沢からそれを言われるのだけは断じて受け入れられなかった。
「そんな雨野レポートにも書かれていない人物のことで、僕を馬鹿と言うな。三条霧矢だなんて人は僕には初耳だ。桁外れの水の魔力の持ち主とは言うけれど、別に要注意人物でも何でもないんだろう。そんな人にいちいち注目していられるほどの余裕はない!」
クリスはとげとげしい口調で言い放った。塩沢は仏頂面のまま、クリスから視線を逸らすと、内野とアイコンタクトを取った。
「まあ、クリス君の言うことももっともだと僕は思う。別に、彼が首を突っ込んでくるにしても、考えなしに突っ込むような人間ではないと思うしね」
内野は大して心配していないような口調で答えたが、塩沢は首を横に振った。
「……マリーの暗殺を妨害されるとしたら?」
「はあ?」
「彼は、殺人を嫌悪している。クリスマスイブの一件でも、それを徹底していた。もし、彼がマリーを守るために動いたとしたら?」
塩沢は腕組みすると、昨年のクリスマスイブの出来事を思い返しながら、事務所の中を闊歩し始めた。クリスはそれを目で追いながら問いかける。
「そんなことがあり得るのか? いくらなんでもそれはないだろう。友人の命が懸かっているんだ。友人の命よりも彼女の命の方が大事だというのならばともかく、まともな分別を心得ているのならば、そんなことはしないと思うけどね」
内野もクリスと同意見だとばかりにうなずいた。
「だと、いいんだが……」
「…考え過ぎだよ。僕は彼を見る限り、そこまで、裏社会の事象に積極的に関わってくるような人間には見えなかった」
「……クリスマスには、雨野光里の弟の契約魔族のために、敵の本拠地へ突入した。確かに、友人が危篤状態になってしまったからでもあるが、やるときはやる男だぞ」
「だから、中里時雨のために、自らの命を顧みずに、同じく突撃すると?」
「マリーを守るというのは極端な話だが、中里時雨の身柄確保くらいはやりかねん」
「そして、彼は大金を手にするのかい? 懸賞金三千万円を」
クリスはうんざりした口調で、塩沢と内野の会話に割って入った。
「金の問題じゃない。ただ、誰かが死ぬくらいなら、彼女が一生軟禁生活を強いられるとしても、そっちの方を是とするかもしれないというだけの話だ」
「何で、そんなに不殺主義にこだわるのさ。裏社会の厳しさを知らないだけだろうけど」
「……約束したから、だそうだ……」
塩沢は低い声で答えた。クリスはしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。
「……なるほど」
内野は二人の様子を興味深そうに眺めていた。それから、あたりには沈黙ばかりが流れていた。塩沢もクリスも自分の足元を見つめて石のように押し黙っていた。
内野はこの示唆に富む沈黙を終わらせるのは惜しいと感じたものの、クリスに釘を刺しておくことがここに来た目的である以上、沈黙を破らざるを得なかった。
「いずれにしても、タイムリミットは明日か明後日。それまでにマリー・ハーシェルの息の根を止めて、あの二人の契約を消さないと、中里時雨の命は絶望的になる」
「ああ、わかってる」
「ただし、一般人に一切危害を及ぼしてはならない。また、対象の殺害及び、戦闘行動を一般人に目撃されることも極力避けること。これだけは守ってもらうよ」
「それも、わかってるよ」
「ならば、よろしい。では、僕はそろそろ失礼させてもらうよ」
内野は軽く一礼すると、そのまま事務所から去った。後には事務所の主であるクリスと塩沢が残された。クリスは棒立ちになっている塩沢に辟易した表情を見せた。
「君は帰らないのか? 僕は、今すぐ寝て明日に備えたいんだけどね」
「……もう少し話がしたい」
塩沢はゆっくりとした足取りでソファーの方へ歩き、クリスの前に腰かけた。ただ、いつも見せている無表情や仏頂面ではなく、穏やかな表情を浮かべていた。
「横越を助けた女の子は魔族のハーフだが、彼女の保護者が、三条霧矢だ」
「……保護者? 契約主じゃなくて?」
「契約主のような関係だが、契約はしていない。彼女自身が、彼と契約したらどうなるか自覚しているからだと思われるが……」
「その霧矢君が、桁外れの魔力の持ち主だから、負担が大きすぎて耐えられないと?」
クリスは話の内容から最も妥当と思われる理由を挙げた。塩沢はしばらく無言だったが、やがて意を決したように口を開いた。
「クリス、アブソリュート・ゼロと呼ばれた魔族を知っているか?」
「まあ、一応は。内戦状態のむこうの世界で派手に兵士を殺し回っていた魔族だとか。でも、それはこっちの世界とは関係のないことだろう?」
「それが、彼女、北原霜華だ」
クリスは顔面をいきなり殴りつけられたような呆然とした表情をしていた。
「このまま、彼らが介入すれば、複数の危険人物が入り乱れて抗争を繰り広げることにもなりかねない。そうなれば、どれほどの被害がもたらされることか……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。何で、アブソリュート・ゼロがこっちの世界に来ていることが、秘密になっているんだ。そんな重要人物がこっちに来たのなら、全認定組織に通達が下るだろうし、場合によっては危険人物指定も……」
「彼女に接触した裏組織は俺たちだけだ。彼女はこちらの世界に来て以来、異能で犯罪行為を行ったり、大きな騒動を引き起こしたりはしていない。本人も真っ当な生活を送っているし、その状態が続くことを願っているから、静観していても問題ないと判断した」
「その判断をしたのは、相川さんか?」
塩沢はゆっくりとうなずくと、低い声で話を続ける。
「彼女はまだ三条霧矢と契約していない。契約主がいなければ、むこうの世界で繰り広げていた派手な殺戮は、こちらの世界ではできないと考えられる。ただ、万が一、彼女が抗争に介入し、その過程で契約主、特に三条霧矢のような強大な魔力の持ち主と契約を交わした場合、中里時雨のごとく、彼女もまた危険人物の指定を受けることもあるかもしれない。悪くすると、契約を交わさなくとも、裏社会で派手な立ち回りを繰り広げるだけで危険人物指定に値するとみなされることもありうる」
クリスは話を自分の頭の中で整理していた。そして、整理した結果、結論を出した。
「確かに、興味深い話だけど、それが僕の行動に何か影響をもたらすとは思えない。結局のところ、君は、何が言いたいんだ?」
塩沢は目を細めると、鋭い眼差しを向けた。
「お前に、失敗は許されないということだ。彼らは間違いなく、この一件に首を突っ込んでくる。その過程で彼らが裏社会から注目を浴びることになれば、俺が言ったようなことにならないという保証はどこにもない」
「だから、彼らが介入してくる前に、マリーを始末してトラブルを終わらせろと?」
塩沢は神妙な面持ちでうなずく。クリスはため息をつくと、脱力してうなだれた。
「横越もいないし、果たして、上手く行くかなあ……」
一人、弱音を吐いたクリスを、塩沢は複雑な表情で眺めていた。




