食事
渋谷の裏路地でクリスの運転する車は静かに止まった。文香が車を降りると、目の前には洒落たバーのような店があった。
「……好意はありがたい。だが、私は未成年だ」
「僕だって、そこまで酒に強い部類の人間じゃあない。でも、ここの料理は美味いんだ」
クリスは車から降りると、店に入り、店員に財布から取り出した一万円札を渡した。
「いつものように頼む」
「かしこまりました」
紙幣を受け取った店員は店の外に出ると、クリスの車を運転して姿を消した。
「マスター、いつものメニュー」
案内される前に、クリスは奥のテーブルに勝手に座ると、カウンターでワインの栓を開けていた店主らしき男の背中に呼びかけた。
「ワインはどっちがいい?」
「赤」
即答したクリスに、店主はようやく振り向いた。かなりいかつい外見をした男で、裏社会の人間だと言われても信じられそうだった。
「違う。そこのお嬢ちゃんだ。クリス、あんたは赤しか飲まないだろう」
「だってさ。どっちがいい?」
自分は未成年だと先程言ったにもかかわらず、クリスは酒を勧めてきた。店主もこの背格好を見て未成年だとわからないはずはない。そもそも、この時間帯でこのタイプの店は、普通であれば、未成年は入店できないはずだった。
「…私は未成年だ」
「気にすることはないぞ。お嬢ちゃん。飲みたくないのならともかく、この店じゃあ、法律、条例なんざ、気にする必要はないからな」
文香はクリスの顔を見た。クリスは苦笑いを浮かべ、好きにするように、と言った。
「…ソフトドリンクをお願いしたい」
「かしこまりました」
店主は少し残念そうな表情を浮かべたが、すぐに文香の前にオレンジジュースのコップを運んできた。
「飲みたくなったら、遠慮なく言ってくれ。どうせ、クリスの奢りなんだろう?」
笑顔で店主はクリスを眺めた。クリスは苦笑いを浮かべると、その通りと答えた。
「ほら、お前さんのお気に入りのカベルネ・ソーヴィニヨンだ」
「どうも」
クリスの前のワイングラスに店主は赤い液体を注いでいく。クリスはワイングラスを傾けて香りを楽しむような動作をし、一口だけ口に含んだ。
しばらくして、二人のテーブルに前菜が運ばれてきた。クリスは優雅な動きでフォークを取り上げる。文香もぎこちない動きでナイフとフォークを動かし、サラダに口をつけた。
「君は、こういうところで食事をするのは初めてか?」
「…まったく初めてというわけではないが、経験は片手で足りるくらいしかない。だから、見ての通り、テーブルマナーにはあまり慣れていない」
「…別にここは高級料理店というわけではないから、そこまでかしこまる必要はないと思うんだが……まあ、確かに、マナーは大切かな」
店員にチップとして一万円を渡しておきながら、高級料理店ではないと言い放つクリスに文香は眉をひそめた。メニューを見ていないので、今食べているメニューがどれほどの値段なのかはわからないが、あくまでコース料理であり、生ハムと季節の野菜で彩られた目の前の前菜を見る限り、とても安い料理だとは思えなかった。
文香は声を落とすと、低い声でクリスに尋ねた。
「この店も『裏』なのか?」
「…ふむ。ボーダーライン、グレーだね。君みたいな人間が経営している。裏に協力的な」
文香はクリスの意味深な言葉を頭の中で反芻させた。サラダを咀嚼しながら、店の天井や壁にあるシャンデリアに視線を巡らせ、ようやく、自分なりの答えに辿り着いた。
「あなたの台詞から考えるに『私のような人間が経営している』とは、裏社会の事情に精通してはいるものの、裏社会に属している人間ではないということを意味するのではなかろうか。そう、協力的な、裏の事情をよく知る表の人間」
クリスは感心した表情を浮かべると、手を叩いた。
「その通り、大正解だ。君はなかなか推理に長けているようだ。素晴らしい」
「どういたしまして」
淡々と礼を言うと、文香はフォークをテーブルに置いた。そして、クリスの顔を見ながら、しばらく逡巡したのち、思い切って口を開いた。
「本題に移る。中里時雨とその契約魔族の現況について教えてもらいたい」
「…一言で言ってしまえば、テロの手先として使われているようだ」
「テロの手先?」
「そうだ。まわりの可燃物を発火させる彼女の能力は、破壊活動に最適だ。最近首都圏で起きている不審火に関与しているのではないかと、疑われているようだ」
文香は今日の昼に起きた爆発事件について思いを巡らせた。池袋で起きた爆発も彼女が関与していたのかもしれない。友人としては、彼女とは無関係であってほしいと願わずにはいられなかったが、否定するのも難しい。
「…なぜ、あなたはマリーを?」
事の元凶を排除するという意味では、殺害は最も乱暴かつ効果的な方法である。裏社会の人間であるクリスにとって、有効で現実的な手段であったとしてもおかしくはなかった。
「銃殺も辞さないくらい、奴は危険な存在だったと。そういうことなのか?」
クリスは黙っていた。文香は語気を強めて迫る。
「答えてほしい。時雨は私の友人なのだから」
クリスは文香の目を見た。眼鏡越しに強い光が瞳に宿っていた。
「……君は第一級危険人物という言葉を聞いたことがあるかな?」
「いや、ない。初耳だ」
「第一級危険人物とは、認定組織が発表している情報の一種だよ。これに指定された人間の身柄を確保、または殺害すると報奨金が出る。指定されるのは重大な規約違反をした認定組織の人間とか、警察が動くことの難しい事件の犯人とかだ。つまり、放置しておくと裏社会だけでなく、表社会にも危険を及ぼしかねない人間だな。まあ、裏社会での指名手配のようなものだと思ってもらって構わないよ」
「そんなものがあるのか。で、マリーがそれに指定されて、あなたは賞金狙いか?」
「残念ながら、指定されたのはマリー・ハーシェルではなく、その契約主だ」
表情を青くした文香だったが、クリスは説明を淡々とした表情で続けた。
「危険人物指定の種別としては、特級、第一級、第二級の三つがある。第二級は身柄確保のみで殺害は不可。第一級は身柄確保優先だが、やむを得ない場合は殺害が許可される。特級は即時抹殺可能、生死を問わない」
「……その、時雨が、第一級危険人物に指定されたと?」
「その通り。あくまで身柄確保優先ではあるが、殺害も場合によっては可だ」
文香は喉がカラカラになっていた。飲み物を口に含むと、動揺を抑えて尋ねた。
「…まだ、彼女は生きているのだろうな?」
「死んだという話は聞かない。そもそも、指定されたことが正式に発表されたのは、おとといのことだ。だから、もしかしたら、彼女自身も自分が危険人物指定されたことをまだ知らないかもしれない。それに、仮に死亡したり、すでに身柄を確保されたとしたら、全ての認定組織に知らせが行っているはずだ。だから、彼女は生きているよ」
文香の顔に少し血の気が戻ったが、それでもまだ動揺は消えていなかった。
「…どうして、彼女が指定されたのだ? やはり、先月の学校での一件なのか?」
「そうだね。あの事件は、彼女の契約異能がとてつもなく危険なものであることを示した。ただ、それだけが理由じゃない。彼女が今所属している組織の性格も性格だし、ここしばらくの間、首都圏で起きている事件への関与が疑われているということもある」
周囲の可燃物を自由自在に発火させる能力を持った人間が、得体の知れない反社会的組織にいるということが、社会にとって非常に危険極まりない状態であることは、一介の高校生に過ぎない文香でも容易に理解することができた。
その危険を除去するために、彼女の身柄を確保して安全な場所に隔離する。あるいは、究極的な手段としてこの世から排除する。残酷ではあるが、効果的な方法だと言える。
「ただ、僕はそんな乱暴な方法は嫌いだね。殺害を免れたとしても、仮に捕まれば、どこかの施設で一生軟禁下に置かれる。悪くすれば、また彼女を利用しようとする者の手に落ちるかもしれない。十六の女の子にそれはどうかと思う」
裏社会の人間らしからぬ穏当で人間味にあふれたクリスの言葉に、文香は目を丸くした。
「危険人物指定は、必要がなくなれば解除される。そうなれば、裏社会の賞金稼ぎに付け狙われることもなくなる。だが、そのためには、もはや彼女が危険な存在でないことを、客観的に証明しなければならない」
「どうやって証明するのだ?」
「…彼女の危険性の中核は、その契約異能にある。これが最大のヒントだ」
クリスは生徒に質問を投げかける教師のような口調で文香に問いかけた。文香は新たにテーブルに運ばれてきた皿を見ながら考える。
「契約異能を消してしまえばいい…のか?」
理想論だった。実際にそんなことはできそうにない。しかし、クリスは大真面目な顔で文香を見ると、筋の良い答えだと称賛した。
「その通り。彼女の契約異能を消してしまえばいい。そこで、話は戻る」




