議論
「おい、内野! 起きろ! お前にお客様だ」
「……頼むから、寝させてください。午前三時まで仕事してたんですから……」
警視庁のオフィスのソファーの上でスーツ姿のまま横になって寝ていた内野を、同僚が揺さぶる。先輩の呼びかけで眠たい目を擦りながら体を起こすと、視界には黒ずくめのスーツで身を包んだ長身の男性がいた。
「……仕事で横浜にいたんじゃなかったっけ? 用事なら神奈川県警に行けばいいのに、わざわざ桜田門までお越しになるとは、ご苦労なこった」
「差し入れだ。これで目を覚ませ」
苦々しい顔でそう言うと、男は内野の目の前で、缶コーヒーとサンドイッチの入ったコンビニの袋をプラプラと揺らした。内野はひったくるようにして受け取って中身を漁り、缶コーヒーの銘柄を見たところで、げんなりした表情になった。
「…まあ、君の趣味からして期待はしていなかったけど…また、ブラックかい……」
「目覚ましにはもってこいだろう。特に、甘党のお前にはな」
「パンにしても、サンドイッチじゃなくて、フレンチトーストとかメロンパンとかが良かったな。朝は糖分を取らなきゃやってらんないよ」
ボサボサの髪を掻くと、内野はふらついた足取りで自分のデスクの引き出しを開け、チョコレートの箱とスティックタイプの砂糖を取り出し、再びソファーに戻った。
「それで、塩沢はこんな早朝に何の用だい。寝起きの僕はまるでダメだってことは知っているはずだろう。聞きたいことがあると言うのならば特にね」
あくびをしながら、内野はコーヒーテーブルの上に置いた眼鏡をつかんで掛けた。缶コーヒーのプルトップを開けると、中身をコップに注いでいく。そのコップに砂糖をたっぷり入れ、スプーンでかき回しながら、まだ焦点の合っていない目で、塩沢を眺めた。
「…で、僕に何の用だい?」
「…救世の理のアジトを発見した。川崎にあるが、一応、報告しておこうと思ってな」
「でも、アジトといっても、本部じゃなくて、どうせ支部だろう?」
砂糖がたっぷりと入ったコーヒーを口に含むと、内野は窓から皇居の方を眺めた。時計を見ると、まだ七時半で庁内の人気も少なく感じられる。
「…支部であることは否定できないが、そこに所属している人間の情報や、保管してあるブツについて聞いたら、そんな風に軽くも言っていられないぞ」
「どれどれ……」
眠たい目を擦りながら、内野は塩沢が差し出した封筒を受け取り、中身を取り出した。いつもの分厚い報告書とは異なり、非常に簡潔で紙にしても五枚もない。
「……中里時雨、マリー・ハーシェルか、保管物は…トリニトロトルエン等の爆発物、その他ガソリン等、指定数量の五十倍を超える危険物……ねえ…」
「無論、消防署への届け出はない。俺たち裏組織が動かなくても、消防法違反で、表からとっ捕まえることも可能だぞ」
「…とっ捕まえると言ったって、場所は川崎なんだろう? うちに来てもらっても困る。そりゃ、情報提供はできるけど、うちが動けないんじゃ話にならないよ。特に、僕は先月神奈川県警のお偉いさんと喧嘩したばかりだし」
サンドイッチの包装を破きながら、内野は口を尖らせた。
内野の所属している警視庁の異能者がらみの犯罪対策の部署と、神奈川県警のそれに相当する部署とは仲が悪く、いざこざが起こることも決して少なくない。さらに悪いことに、異能や裏社会の情勢に長けた人間は日本広しといえどもかなり少なく、警視庁ですら人材が不足する中、地方警察には人材がほとんどいないと言ってもよい状況だった。
そんな警察の裏事情を裏社会の人間も知っているのか、アジトを川崎や川口、浦安などといった、東京周辺の他県に置く裏社会の組織は数多く存在する。そうしておけば、人材不足がその県の警察よりもまだましな警視庁が踏み込んでくるリスクを多少なりとも抑えることができるという、妙な方向性での回避策だった。
以前に、内野の先輩に当たる警官が、埼玉県にあった裏社会のアジトに踏み込んだ時、本来ならば表沙汰にならないように密かにやる仕事だったが、失敗し、踏み込んだことが埼玉県警に知られてしまったことがあった。その結果、警視庁と埼玉県警との間で大喧嘩になってしまったため、責任者である青葉は上層部から叱責され、それ以来、捜査に慎重になりがちだった。そして、汚れ仕事は裏社会に「外注」するという、本来、警察としては絶対にあってはならないやり方もするようにもなってしまった。
「とにかく、うちの管轄外だ。僕らは動けない」
「…情けないな。お役所仕事とは」
「何とでも言うがいいさ。でも、万が一、僕が勝手に動いてクビになったら、困るのは君らだろう。警察とのパイプが狭くなるんだから」
乱暴にサンドイッチにかぶりつきながら、内野は言い放った。塩沢は仏頂面になって向かいのソファーに乱暴に腰を下ろすと、天井を見据えた。
「そうだな。警察とのパイプが狭くなるのはこっちにとっても損失だ。だが、大都市の市街地に火を操る人間とともに、大量の爆薬があるというのも、危険だと思うが」
「…じゃあ、どうするのさ。相手は腐っても危険人物を抱えた集団だ。そんなところに、警察を踏み込ませてみても無理があるだろう。特殊部隊を突入させるにしても、それは明確な疑いの濃い犯罪集団でもなきゃ法律的にも無理だよ」
下手をしたら何人の死傷者が出るのかわからない。最悪の場合、警察だけではなく、一般市民を巻き込む恐れもある。そんなことになろうものなら、警察への信頼は地に落ちてしまう。その結果、裏社会への歯止めが効かなくなりかねない。
「じゃあ、放っておくのか? 少なくとも、そこに出入りしている連中が、ここ最近の放火事件に関与している疑いが濃いんだぞ」
責め立てるような塩沢の口調に、内野は困惑の表情を浮かべると、コップのコーヒーを大袈裟な動作で飲み干した。そして、苦々しさに満ちた目で彼を見た。
「僕も、君と同じように何とかしたいと思うのが正直な気持ちだよ。でも、拳銃を持ってそんなところに踏み込むのは自殺行為でしかないだろう? 様子を見るしかない」
塩沢もそれはわかるといった表情でうなずいた。裏社会の人間である塩沢と違って、内野はれっきとした公務員であり、万が一殉職したとなれば、それだけで問題となるし、彼が引き起こした問題は、表社会が責任を引き受けなければならなくなる。それは、社会に対して相当なダメージを与え、本来以上のコストを使うことになりかねない。
「とりあえず、僕から言えることはこれくらいだ。この報告書は、青葉さんに渡しておくよ。最終的には、彼が決めることだから」
内野は差し入れの礼を言うと、顔を洗いに化粧室へ立った。




