朝食
「おはようございます。着替えをご用意いたしました」
普通のランクほどのホテルのシングルルームのような使用人部屋で、起きたばかりでパジャマ姿の霧矢はぼんやりと椅子に座っていたが、レイの呼び声でハッと目を覚ました。
部屋の戸を開けると、朝早くであるにもかかわらず、身だしなみをきちんとしたレイが新品の服の入った包みを持って立っていた。
「おはようございます。着替えがお済みになりましたら、朝食の支度が出来ておりますので、一階の食堂までお越しください。洗濯物は部屋のかごに入れておいてくだされば、後はこちらの方で洗っておきますので」
「……わかりました」
どんな服を渡されたのかと、少し緊張しながら袋を開けてみると、ブランド品のワイシャツにベスト、冬物のスラックスだった。安く見積もっても、おそらく上下で五万円は下らないだろう。色は派手ではなく、どちらかといえば霧矢好みのデザインだったが、ブランドのロゴマークを見ると気分が不安定になる代物だった。
新品の服に袖を通すと、霧矢は鏡を見てため息をついた。自分にはもったいないと言う他になく、もしこの服に感情があるのなら、もっと垢抜けた人間に着てほしいと嘆いているに違いないとまで思えた。
戸を開けると、霧矢は食堂の方へ向かって歩き出した。窓からは外で活動している使用人が見えたが、そのうちの数人は何やら体に包帯を巻いていた。
「おはよう……」
食堂の戸を開けると、美香が長いテーブルの前に腰かけていた。入ってきた霧矢を見るなり、不機嫌そうな表情を浮かべ、無言で椅子を指さし、さっさと座るように促した。霧矢としても特に抗う必要もないので、彼女の指示通りに椅子に腰を下ろした。
料理の皿が運ばれてくると、霧矢は、純白のテーブルクロスの上に鎮座するバターナイフを無言で取り上げ、パンにジャムを塗り付けていく。一方で美香は、そんな平然とした様子の霧矢を恨めしそうな視線でにらみつけていた。
ベーコンエッグを一口食べたところで、霧矢はついに対面の美香に声をかけた。
「……いい加減食べたらどうだ。冷めてしまうぞ」
「…一言目に言う言葉がそれなの?」
「……じゃあ、僕にどんな言葉を期待していたんだ?」
「そうね……『おはよう、今日もきれいだね』とかかしら?」
「……そうか。それは残念だったな。だったら、僕じゃなくて他の人間を探して来い」
にべもなく流すと、霧矢はオレンジジュースを口に含んだ。霧矢の家では紙パックでそのままテーブルに置くが、この豪邸では豪華な水差しの中に入れてあり、それとはまた別にアイスペールが置かれている。
そもそも、三条家では、朝食は基本的に和食であり、洋食での朝は物珍しくもあった。しかし、朝食を共に食べる人間が、たまに不機嫌なことがあり、自分に対してとげとげしい視線を向けてくることも多々あるというのは、三条家でも片平家も違いのない共通の現象であると、霧矢は妙なところで納得していた。
お互いに無言のまま、黙々と食べ進めていると、閑静な食堂には似つかない電子音が響き渡った。霧矢が慌てた様子で携帯電話を高級な服から引っ張り出すと、画面には、晴代からのメールが届いたとの表示が浮かんでいた。
――今から、私たちは東京に向かいます。霜華ちゃんがそっちに行くみたいだから。着いたらまた連絡するから、迎えに来てね。
文面の意味を理解するのに、霧矢は数秒の時を要した。そして、それが意味するところを理解した途端、体の震えが止まらなくなってしまった。
(…そ、霜華が、ここに来るだと……?)
とりあえず、適当に文面の言葉を濁しながら、メールの返信をすると、霧矢は深呼吸して再び、朝食に手を付け始めた。
「何かあったのかしら? あなたがそんなに挙動不審になるくらいだから、何かとてつもない事件が起きていると考えた方がよさそうな気がするけれど」
「……僕だけの問題だ。関係ない」
不審に思った美香が質問するが、霧矢は回答を拒絶した。もともと不機嫌だった美香がさらに不機嫌になるが、それについて気にするほど霧矢も小心者ではない。
「ねえ、あなた、この家から追い出されたいの?」
「だったら、僕は地元に帰っていいってことだな。生憎、自力で浦沼に戻れるだけの金は持ち合わせているんだ。この食事が終わったら、遠慮なく帰らせてもらう」
霧矢の切り返しに、今度は美香が黙る番だった。苦々しい表情を浮かべると、無言で砂糖が大量に入ったミルクティーを口に含む。再び、食堂を沈黙が支配し、二人が黙々と食器を動かす音だけが響いていた。
すべて食べ終わり、食器が下げられると、霧矢は出されたコーヒーを眺めていた。砂糖を少しだけ入れ、ティースプーンでカップの中身をかき混ぜていると、美香は二杯目となる紅茶に視線を落としていた。
「……本当に、帰る気なの?」
霧矢は顔を上げた。いつもの美香からは想像もできない落ち込んだ声が発せられ、霧矢はちょっとした衝撃を受けた。美香の表情は暗く、今までに見せてきた余裕たっぷりの表情の面影はどこにもなくなっていた。
本心としては、帰ると言ってしまいたい。しかし、目の前の美香の様子では、とてもそんなことは言えなかった。完全なエゴイストであれば、容易にやってのけるであろうことを、中途半端であるがゆえに霧矢にはできない。
「僕にここにいてほしければ、もう少しまともな振る舞いをしろ、とだけ言っておく」
「……そう、ありがとう」
霧矢はかなり上質なコーヒーの香りを楽しみながら、快晴の東京の空を、窓を通して眺めた。天気予報によると、関東一円は高気圧に覆われ、今日の最高気温は二十度を上回るらしく、出かけるには昨日と同じく絶好の天候だった。
「ところで、さっき、いろいろ怪我をしていた人達を見たんだが、どうしたんだ?」
重苦しい雰囲気を何とかするため、霧矢は適当に思いついた話題に触れた。美香は少し明るい表情になると、紅茶をすすりながら答えた。
「彼らはね、あなたの生徒会長さんの家に押しかけて、返り討ちに遭ったみたいよ」
「…は?」
わけがわからず問い返した霧矢に、美香は面白そうな顔つきで答えた。
「だから、昨日の午前中、うちの使用人にあなたを探させていたけれど、そのチームの一つが、雨野家に押しかけて、取り込み中だから出直してきてほしいと言われたのに、しつこく彼女に付きまとったから、派手に退治された……と、聞いたわ」
「会長に…?」
美香の話を聞いて、霧矢はそれが真実ならば、彼らはなんと無謀なことをしたのかと呆れた。もっとも、雨野光里が一流の喧嘩師としての素質があることを知る人間は少ないので、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
「うちの執事の川内を今日送るわ。きちんと出向いてお詫びをしておかないと」
「……ああ、そうかい。別に会長からしてみたら、そんなことはどうでもいいと思ってるだろうけどな。自分が人を殴ったことなんて、それが重要な相手でもなければ、数時間もすれば忘れちまうような人だし。別にお詫びなんかする必要はないだろうさ」
投げやりな口調で雨野について説明すると、美香は若干呆れたような表情で霧矢を見据えた。仮にも霧矢の護身術の師匠である人間に対して、そこまで敬意を込めていない話し方をすることに、美香はあまり快く思わなかったらしい。
「……いいんだよ。お互いに軽口を叩ける仲だし、何を言ったって、お互いにそれを受け止めることはできるんだよ。最低限の礼さえあれば、堅苦しい礼儀はいらないんだ」
霧矢はそう言って締めくくったが、美香は腑に落ちないような顔をしていた。上流階級の美香にとって、自分に一対一で付いてくれる「師匠」というものの存在は、霧矢のような人間にとってのそれとは違うのだろうし、それに対しての接し方もまた違うのだろう。
美香は遠くを見るような目で紅茶を飲むと、空になったティーカップを皿に置いた。再び、いつもの自信に満ちた顔つきになると、霧矢を直視する。
「……ところで、もう一度聞くわ。さっきのメールはいったい何だったのかしら?」
「黙秘権を行使させていただく。それ以前に、僕に答える義務もないはずだ」
「…そこまでして、答えないと言うのなら、私にも考えがあるわ」
強い口調で美香は霧矢に迫る。霧矢は辟易して席を立とうとするが、その瞬間、霧矢は殺気を感じ、とっさにテーブルの下に伏せた。一瞬遅れて、先程まで霧矢の頭があった場所を手裏剣のように回転してコースターが通過した。
「……人に物を投げつけるな、お嬢様。行儀が悪いぞ」
コースターを拾い上げ、ゆっくりと立ち上がった霧矢に、美香は相変わらずの得意げな笑みを浮かべた。しかし、その笑顔の裏にどす黒いオーラが立ち込めているのを感じることができないほど、霧矢も鈍感ではない。
「答えないと言うのならば、私にも考えがあると言ったわ。その考えを実行に移される前に、白状してしまった方が身のためだと、理解できないのかしら?」
「……何でそんなにムキになって知りたがる。それ以前に、どうして僕のメールの内容がそんなに重要だと考えるんだ」
「私がストーカーに連れ去られそうになった時でさえ、あなたは慌てなかったのに、今の慌て方は半端じゃなかったわ。普通、携帯のディスプレイは、そんなに血相を変えて見るものじゃないわよ」
「……観察力に長けているようで。実に素晴らしい」
皮肉を込めた口調でごまかそうとする霧矢に、美香はついに不満が爆発した。
「いいから教えなさい! でないと、私は本気で怒るわよ!」
金切り声を出した美香に、霧矢はついに観念した。ポケットから携帯電話を引っ張り出すと、晴代から届いたメールを表示し、テーブルの上を滑らせて美香に渡した。美香は器用にキャッチすると、ディスプレイに映った文字を目でなぞり、やがて、ニヤリと笑った。
「…これは、迎えに行ってあげなきゃいけないわね」
三条霧矢の胃に少なからぬダメージが及んだのは言うまでもない。




