出発
三月二十日 水曜日
朝日の差し込む早朝に、浦沼の商店街で、スポーツバッグを持った薄着の女が一人、薬局の前で佇んでいた。東京とは一変して、あたりは残雪で覆われているものの、薄着でも寒さを感じている様子は彼女にはない。平然とした様子で誰かを待っていた。
やがて、人気のない商店街の中を、ゆっくりとした動きで影が二つ近づいてきた。
「おはよう、やっぱり、あたし朝に弱いわ……」
「…何度起こしたと思っているのだ……それだけで私は疲れた」
上川晴代と木村文香の二人は眠そうな表情をしていた。特に晴代は、これから旅行に行くとは思えないような低い調子の声だった。
「まったく、緊張で眠れなくなるなど…どこの小学生だというのだ……」
呆れた様子の文香はため息をついた。さすがに旅行ということもあって、服装はいつものような、制服の上に白衣といった奇抜なスタイルではなく、地味な色合いのセーターにジーンズ、上は紺のコートといったごく普通の格好だった。その一方で、晴代は何やら赤やオレンジを基調とした派手な色の組み合わせの服装だった。
「だってさあ…久々なんだよ! 東京に行けるってのはさ!」
「……行ったところで、目的はアレだろう。私には理解できん……」
「じゃあ、霜華ちゃん、準備できた? 十八きっぷだから長旅になるけど」
「万事オッケー。いつでも出発できるよ!」
威勢のいい返事をすると、目に隈のできている晴代について、霜華は駅の方に向かって歩き出した。その後ろを文香は歩いていく。
荷物の多さは晴代が一番多く、大きなキャリーケースを引っ張っている。次に肩掛けタイプのスポーツバッグを持った霜華で、そして、荷物の一番少ない文香に至ってはリュック一つだけだった。
「……ねえ、晴代は何でそんなに大きなカバンを持ってきたの?」
「買いたいものがいろいろあるし、袋もあんまり人に見せられないものだから……」
「……よくわからない」
「霜華、それ以上は聞いてやるな。晴代の趣味は独特なのだから」
文香はたしなめるようにつぶやいたが、彼女の目には諦めのような光が浮かんでいた。霜華は知りたい気分を抑えて、文香の言葉通り、これ以上の質問はやめた。そして、当の晴代は質問を免れたことに安心した表情を浮かべていたが、内心では少し残念な気分もあった。しかし、その気持ちが霜華に伝わることはない。
「それにしても、霧矢が先に東京に行っちゃうとはねえ……」
「…三条にも、いろいろ事情があったということだろう。だが、それ以前に、私が心配しているのは、西村を連れて行くということだ。万一の場合に備えて、セイスを一緒に連れて行くということには異存はない。しかし、傷がまだ完全に治ったわけではないと聞いているが。昨日退院したばかりなのだろう。大丈夫なのか?」
「…西村君は大丈夫だと言ってるけどね。セイスも別にいいって言ってるし」
晴代はこともなげに答えたが、文香は心配そうな表情を崩さなかった。
「傷心旅行に行きたいのはわかるが、あの男は無理をしかねん。旅行中に傷が開いて、倒れられでもしたら、目も当てられないことになるぞ」
「私は別にいいと思う。晴代の誘いはきっと、西村君にはとても嬉しかったと思うよ。誰でも、自分に手を差し伸べてくれたら嬉しいと思うはずだから」
霜華の言葉に、文香は一瞬沈黙し、そしてゆっくりと息を吐いた。しかし、その息の吐き方は呆れに伴うため息ではなく、感心した様子のものだった。
文香は霜華を一瞥すると、少し表情を和らげて口を開いた。
「そうだな。もっともな意見だ。塞ぎがちの人間にとって、気分転換に連れ出してくれる人がいるというのは、精神的な支えになるだろう」
「万一に備えて、セイスを連れて行くんだから、大丈夫だと私は思う。あの子なら、自分の契約主の面倒をきちんとみるはずだから」
「…そうだな。私も少し神経質になり過ぎているのかもしれないな」
文香はしみじみとした口調でつぶやくと、顔を上げて空を見上げた。東の山から顔を出した太陽が彼女の顔に降り注いでいる。陽光を浴びながら、文香は歩くペースを上げた。
「さて、着いたけれど……」
浦沼駅に着くと、目の隈がまだ消えきっていない晴代はあくび交じりの弱々しい声でつぶやいた。手には普通のそれよりも大きなサイズの切符が握られている。
「私は、池袋まで行くけど、みんなの目的地はバラバラだから、どこかで解散する必要があるわね。文香は西東京や神奈川県にあるキャンパスを見学しに行くのよね? で、霜華ちゃんは、お金持ちになびいた軟弱者の霧矢にお灸を据えに行くと」
「お灸を据える? いったい何の話をしているのだ?」
不審な表情を浮かべると、文香は霜華に視線を向けた。霜華は顔を赤くすると、文香から顔をそむけた。その様子を見て、晴代はニヤニヤ顔で続ける。
「まあ、それについてはおいおい話すとして、目的地がバラバラなんだから、副都心のどこかで別れた方がいいでしょ。そこからは自由行動だから、自力でホテルまで行ってね」
「そういえば、まだ聞いていなかったが、どこに泊まるのだ」
「ホテルは池袋駅の東側にあるから。ネットでツイン二部屋とシングル一部屋を予約しといた。ちなみに、地図は全員分をプリントアウトしてきたから、配っておくね」
普段の晴代とはかけ離れた計画的な行動に、霜華と文香の二人は面食らった表情を隠すことはとてもできなかった。文香に至っては驚きのあまり口を開けている。
「……で、一泊いくらなのだ。あまり高くても困るのだが……」
「あのね、お金が足りないからわざわざ十八きっぷを使うんでしょ。貧乏人の高校生が泊まるようなホテルがそんな高いところだとでも思ってるの?」
まくし立てる晴代に、文香は心外という表情で彼女の自慢気な顔をにらみつけた。普段の彼女は計画性という言葉にほとんど無縁の存在であり、文香は常にそれに頭を痛め続けていた。そして、文香は今回の旅行計画もまた、彼女の無計画性が前面に押し出されたものだと思っていたからだ。しかし、今となっては、勉強では絶対に発揮されない彼女の旅行計画の緻密さには舌を巻かざるを得なかった。
「ツインは一人当たり約四千円。どう、お手頃でしょ」
「……まあ、妥当な額だな。私もそれで構わん」
文香がぼやいていると、アナウンスが電車の到着を知らせた。十八きっぷを握った晴代に続いて、呆れ顔の文香とまだ顔の赤い霜華はホームに向かって歩き出した。




