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庭球

 エリクス命名による『僕のせいでアンナがリリアを無視することになってごめんね事件』は、ソフィアの仲介により、速やかに解決した。

 ぐしぐしと泣きじゃくるリリアをなぐさめ、アンナが謝りエリクスが詫び、ソフィアが監督不行届を認めた。

 

 ここに至ってようやく正式な紹介を受けたリリア・ロゼール男爵令嬢は、ソフィアの実兄の娘。つまりエリクスの従姉妹だった。

 幼いころからガルシア邸を出入りし、兄妹同然に育ったという彼女に、アンナと同い年とは思えぬ無邪気さで飛びつかれ、

「わたしこそ、つげ口しちゃってごめんなさい!」

 と、ぎゅうぎゅうに抱きしめられた。

 

「みんなであやまって、おそろいね!」

 

 彼女の『おそろい』に対する執着がアンナにはよくわからないが、これはガルシア家において人間関係を円滑にする儀式なのだと受け入れた。

 花の少女からは、甘いバニラの香りがした。



◇◇◇

 

 それからも、エリクスの遅刻癖は治らない。

 興味の薄いことは抜け落ちてしまうのだろう。アンナは思い切って、エリクスが夢中だという庭球に誘ってみた。ガルシア邸の中庭、人工の池のほとりに立つ四阿に隣接するコート。

 

「あっ」

 

 アンナのラケットはエリクスが打った球に追いつけず、むなしく空を切った。飛んでいった球を追いかけて走る使用人に、心苦しさがつのる。

 

「申し訳ありません……」

「いいよいいよ、アンナは庭球がはじめてなんだもの。誰だって最初はそんなものさ」

 エリクスが笑う。彫刻めいた美貌が少しだけくずれ、年相応の、人の体温が現れる。その瞬間をアンナはこそばゆく思った。

 

「ちょっと疲れてしまったね。ひと休みしようよ」

「はい。では、四阿に」

「ううん。こっちだよ」

 エリクスが風のように木陰へと走り、木の根本へとじかに座った。貴族らしくもないその行動にアンナは驚く。

 

「アンナも、ほら!」

 屈託のない笑顔で手招きされるが、淑女たるもの地べたに直接座ってよいものか逡巡してしまう。

「前に土のコートに座って、母上にこっぴどく叱られたんだ。でもここは芝の上だから大丈夫。葉っぱははらえばいいからね」

「それは……汚れの質の問題ではないのでは」

「あははっ、かたいことは言いっこなし! ねえ、アンナも共犯になってよ」

 催促に地面をぽんぽんと叩かれ、そこよりは人ふたりぶんほどあけた場所に、アンナはおずおずと腰を降ろした。

 

 ふたりして綿麻のシャツに麻のズボン、編み上げの半長靴を履いた運動着姿。ゆったりとした首もとから抜ける風が心地よい。まだ木々は青いとはいえ、時おり吹く風の温度に、秋の訪れを覚える。

 

「あ……おいしいです」

 使用人から渡された透明な飲みもの。ただの水かと思えば爽やかな酸味とほのかな甘みがあり、するすると喉を通り落ちる。

「だろう? 庭球仲間から教わったんだ。水に柑橘をしぼって砂糖を少しと、塩をひとつまみ。塩を入れるのがミソなんだ。汗といっしょに出ていった、ええと、なんだっけ? とにかく体に大事なものを補うんだって」

「まあ! 鍛錬のあとによさそうです。軍部のみなさまにもお伝えしたら、喜ばれそうですね」

「あ、うん、そうだね。アンナが伝えるといいよ」

「まあ。エリクスさまからのほうが、喜ばれましょう」

「ああ、そうだね…………気が向いたら、そのうち」

 この話題は終わりとばかりに、ごろりと横になるエリクス。お行儀は悪いが、とがめるのはあんまりにも無粋な気がして、アンナは口をつぐんだ。

 

 運動疲れした体に、そよそよと触れる風が心地いい。強い陽射しをさえぎってくれる緑は、じきに赤く染まるだろう。持ったままのグラスの外側を濡らす露が、ぽたりと膝に落ちた。

 

「……ふゆをこえ、はるをまち」

「われ、ふるさとをかなたにおもう……」

 

 エリクスが無意識に口ずさんだ古い軍歌の旋律を、アンナが自然に継いだ。思わず目を合わせ、互いにくすりと笑う。

「知ってるの?」

「ランツ小隊長さまが、よく」

「そっか…………分隊長、出世したんだね」

「はい。エリクスさまにもお会いしたいと」

「アンナが口出しすることじゃないよ」

 ぴしゃり、言いきられてアンナは唾を飲んだ。

「差し出がましいことを申しあげ、お詫びいたします」

 

 アンナは、また失敗したと理解した。

 何か、触れてはいけない所に触れてしまった感触。慌てて立ち上がり礼をとろうとするも、制止される。

「やめて、謝らせたい訳じゃないんだ。……その、違うんだ。……ああもう、やめよう。この話はおしまい!」

 ね、と立ち上がり、エリクスはコートへと走り出してしまった。

 

 昔、幼い弟の振り回した手がアンナの顔にぶつかったことがある。驚いて固まってしまったアンナと、もっと驚いていた弟。あのときの弟も、気まずそうに逃げていった。そのあと夕方になり、弟はしおれた野花を一輪持ってきた。ぶっきらぼうに差し出されたそれを、アンナはいまでも覚えている。

 男の子とは、きっとそういうものなのだろう。

 

「アンナ! もうひと勝負だ!」

「……はい!」

 拾ったラケットを振りながら笑うエリクスを、アンナは追った。

 

 ふと、空を見上げる。故郷の牧場の、羊の群れによく似た雲。明日は雨になるかもしれない。



 

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