ヴィルヘルム
また失敗してしまった……
王都に出てから、アンナは周りの人と噛み合わないことが増えた。故郷ではそこまで自分が要領の悪いほうだとは思わなかったが、彼らには領主の娘だからと、ずいぶんと気を遣わせていたのかもしれない。
ぽつりと長椅子に腰掛けてため息をひとつ。
近ごろとみにため息が増えた。幸せが逃げると教えてくれたのは誰だったか。つらつらと考え込んでいる間に、大勢いた来客は、聖堂内からほとんど出てしまったらしい。係員とおぼしき腕章を付けた人が何人か、忘れ物の確認だろうか、長椅子の下をひとつひとつ覗き込みながら確認をしている。
迷惑になる前に退散せねば、思い至った瞬間に後ろから声をかけられ、驚きに喉が鳴った。
「フェルミ嬢、どうした」
「あ……閣下……」
レグナリア王国軍統括長官ヴィルヘルム・ガルシア。
エリクスの父でありソフィアの夫。ガルシア家での花嫁教育では日が翳る前においとまするので、アンナは晩餐どきまで帰宅しないという彼と接したことは、ほとんどない。
見上げる長身、軍で鍛え上げられた体は厚い。軍服姿は常であるが、今日は式典用の白いサッシュをかけ、胸には勲章が並ぶ、いかにも軍人然とした堂々たる姿。濃茶の髪には白が幾すじか。よく研がれた刃の色の瞳は険しい。
無礼のないようなんとか立ち上がり、痛みでなめらかに動かない体をなだめ、不格好な礼をとると、音が鳴るような敬礼を返された。
「愚妻と愚息はどうした。なぜ一人でいる」
「あ、あの。おふた方は……」
「はぐれたのであれば、こちらで捜索の手を出そう」
鋭い眼光に、下手なごまかしは悪手と悟る。
「……リリアさまとおっしゃる方と、広場に向かわれました」
「ふむ。ロゼールの娘か」
しばしの無言。
彼の思考は、アンナごときには到底読めない。だから黙して次の言葉を待つ。
「それで、なぜ貴女は一人でここに?」
「恥ずかしながら体調が思わしくなく……先に帰るようにと指示されました」
「体調?」
厳粛な式典に、万全で挑めなかったことを咎められるだろうか。こめかみを汗がつたう。
「……先程から動作が不自然だ。その様子、筋肉痛か」
「ご推察の通りです」
「何をした」
「慣れぬことを、少々」
「ふむ……」
観察する視線に、緊張に震えているところを見せまいと、お腹にぎゅっと力を入れた。
ヴィルヘルムは怪訝な表情で、左の眉を器用に釣り上げる。
「フェルミ嬢、手袋を取りたまえ」
怪我した左手を隠そうと右手で覆ったところを、目ざとく見つけられた。この国のマナーでは立位の正しい手の置き位置は左手が上。小娘のその場しのぎの企てはあっという間に露見した。
猛禽類に睨まれたねずみの境地で、手袋をはずして手のひらを見せる。汗に湿った包帯はよれてしまってもはや役目を果たさない。
「肉刺が潰れたか。誰に習った」
「握り方だけ、当家の門番にききました。彼らの職務を邪魔はできませんので、そこからは自己流です」
「どれほど振っている」
「まだ、百をやっとです。朝に少しずつでも、と」
「毎日か」
「はい……」
みっともない傷をこさえて、と呆れられてしまったのだろう。恥ずかしくて、視線がどんどん下がってしまう。
「なぜ、剣を?」
「武門のガルシア家に嫁ぐ以上、必要なこととぞんじました」
良かれと思いはじめた鍛錬だったが、余計なことだっただろうか。
泣きたい気持ちを、口の中を噛んで抑えつける。
「ふむ」
淑女たるもの背中を丸めてはいけない。アンナは精一杯の矜恃で姿勢を保ち、次の言葉を待つ。
「悪い癖が付いている」
予想外の言葉に、思わず顔を上げ、刃色の瞳を見返す。
「毎週火の日、七の刻に練兵場に来なさい。話を付けておこう」
「え…………?」
「都合が悪いか」
「いいえ!」
「ならば良い」
安堵で抜けそうになる膝を奮い立たせる。痛くて動けないのがかえって良かった。
「では、しばしここで待ちたまえ。女性係員を呼んでこよう。応急処置と、馬車まで送らせる」
既に離れはじめた後ろ姿に、慌てて声をかける。
「閣下」
「何だ」
「叱らないのですか?」
「……叱る謂れがない」
颯爽と立ち去る広い背中に、アンナは深々と頭を下げた。




