箱庭
辞去の挨拶もできなかった。
リリアが泣きわめき混沌とする居間を飛び出し、手巾で包んだ髪飾りを手にアンナは走る。
淑女の心得などと言ってはいられない。早く、早く大人に伝えなければ。
ガルシア邸は直角配置。短辺がソフィアやエリクスたち家族の住まう私的区画、長辺がヴィルヘルムの管理する公的区画だ。
日頃立ち入ることのない公的区画に向け、アンナは立ちすくみたくなる足を叱咤し、無我夢中で足を動かす。
「フェルミ嬢?」
廊下の角を曲がるとジャスミンの香りが途切れ、蜜蝋と革の匂いに代わった。そこでよく知った声に呼び止められる。
「ランツ小隊長……」
ヴィルヘルム直下にあり、五十人小隊を率いる小隊長。アンナの剣の指導者でもある男が、こちらもアンナ馴染みの顔である部下の軍人とふたり、怪訝な表情を隠すことなくアンナを見ている。
「……何が、起こりましたか」
「小隊長…………閣下に、ヴィルヘルム・ガルシア長官にお取り次ぎを……」
「アンナ!」
焦りの色濃い呼び声に振り返ると、エリクスがもう近くまで追いついていた。
「アンナ、待って。話をしよう」
いまさらだ。いまさら話など、もう遅い。
アンナとエリクスの対話で済ませられる段階は、とうにすぎてしまった。
こうなる前にできたことは山ほどあった。
黎明石が国家管理資源であることの説明が足りなかった。
感受性豊かなリリアを強い言葉で煽ってしまった。
アンナは、すべてを間違えた。
後悔に顔を伏せ震えるアンナを庇うように、軍人が前に出る。
「フェルミ嬢、その手巾の中身をお見せいただけますか」
「……はい…………」
振り回され、金属製のトレーと激しくぶつかったかんざしは花の部分が曲がり、石にはひと目でわかるほどの亀裂が入っている。
それを見た小隊長の顔から血の気が引く。が、次の瞬間には冷徹な軍人の表情へと切り替わった。
「誰も動くな!」
鋭く一喝し、腰の警笛をひと吹き。途端、邸のあちらこちらから軍靴の駆ける音が複数聞こえた。
「……は?」
エリクスの呆然とした声。
アンナの盾となった軍人は、すでに彼を制圧できる構えに入っている。
「フェルミ嬢、こちらへ。事情をお聞かせ願いたい」
「はい……」
「どういうことだ、分隊長! 僕の家でこんな横暴、許されない!」
「……坊ちゃん。俺はもう、小隊長ですよ。動くなと申し付けたはずです」
「そんなことどうでもいい! 離せ、アンナをこちらに」
エリクスの伸ばした腕が、軍人に絡め取られる。
「エリクス・ガルシア子爵令息。抵抗されるなら武力で制圧します」
「っ!」
アンナとエリクスは離れた部屋に隔離された。
「アンナ! アンナ!」
連行されながら、最後までアンナを呼んでいたエリクスの声が耳から離れない。
それに混じって、緑地に小花の散る白い家具の配された私的な居間が、重い軍靴に踏み荒らされる音を聞いたような気がした。
◇◇◇
王城敷地内の外郭、官僚や軍部の役所である執務棟には立ち入ったことがある。そこにはいたる所に働く人々の気配があった。しかしそのさらに奥、今日はじめて訪れた区画には人の温度がない。
近衛に先導され父と共に歩く回廊は水底のように静かで、己のかすかな足音さえ許されざる騒音であるように思えた。
これから通達を受ける内容は、王族が立ち会うとはいえ内々のものであるため、謁見の間ではなく会議室で行われると父から聞いた。
先日の騒動から一週間。軍部で事情聴取を受けたのち自宅にて謹慎していたアンナは、不思議と凪いだ心持ちでいる自分に少しの戸惑いを覚えていた。
婚約締結からおよそ三年、うまく立ち回れないことに苦しんだ。
今様の華やかな装いが似合わず、義母となる人の求める振る舞いができず、夫となる人との縮まらぬ距離に思い悩む日々。常に息は浅く、ままならぬ現状に胸をかきむしりたい発作を堪え続けた。
今はもはや自分ではどうにもならない状況に開き直ってしまったのか、目の前にかかっていた紗が払われたかのように景色が鮮明に見える。
自認していたよりも己はずいぶんと図太いのかもしれない。
石造りの回廊を、王族に拝謁するのに不足のない格の落ち着いた灰色のドレスをまとい、同じく濃灰色の三つ揃いを着た父の三歩うしろをアンナは粛々と歩く。
到着した会議室には四角に並べられた長机の上座、いちばん奥にはこれから王族が着座するのであろう空席がふたつ。
その背後には綴織のタペストリー。夜明け前の空のような濃青と少しの紫の混じった地に、銀糸と灰色で王家の紋章が浮き上がる。
派手さはないがその落ち着いた色合いに、アンナは質実剛健を旨とするレグナリア王家の有り様を見た。
華美を好まない王家への拝謁時には、きらびやかな身なりを差し控えるのが不文律だ。
扉に近い下座にはロゼール家。両親に挟まれて座るリリアは薄桃色のドレス。いつもより装飾を減らし俯く花は、少し萎れたように見えた。
彼らの後ろを通り過ぎ、案内された席の向かいにはガルシア家。こちらもエリクスが両親に挟まれて着席している。少し痩せただろうか。デビュタントでじっくり見られなかった軍服姿は、何でも着こなす彼にしてはあまり似合っていないように思えた。
ソフィアの若草色のドレスに象牙色のレースも、明るさの足りない室内では枯れかけの花を思わせる。そんなふうに思う自分が意地の悪い人間になったように思えて、アンナは悲しくなった。
「アンナ……」
何かを言いかけたエリクスにアンナが目を合わせる寸前、役人のひとりが声を張った。
「レグナリア国王陛下、ならびに王太子殿下、ご入室」
すぐさま全員が立ち上がり、最敬礼をとる。
毛足の長い絨毯は足音を吸うが、背後を通り過ぎる存在感に本能的な畏れを感じた。
「着席を許す」
大舞踏会の開幕の挨拶で聞いた声。大きく張り上げるわけではないのに鮮烈に耳に届く豊かな声。アンナなどは従うほかはない、圧倒的な存在感。
無礼にならぬようそっと伺い見れば、遠目に一度だけ目にしたことのあるレグナリア王その人。
白の混じった金茶の髪に豊かな髭を蓄えた、青紫色の瞳を持つ美丈夫。ヴィルヘルムのものより装飾の多い軍服に包んだ体躯は、現役の軍人のように厚い。以前ダンスの相手を務めた王太子も、時と経験を重ねたらあのような姿になるのだろう。
王太子が手元の書類を一枚めくり目配せすると、脇に控えた儀典官が厳かに告げた。
「これより、御前会議を開会いたします」
王と王太子の背後、扉の左右、そして各家の背後。いつの間にか配置を終えていた近衛が一斉に敬礼を捧げる。
剣の鞘が服にこすれる音がやけに耳についた。




