ガルシア家
ガルシア子爵家。
爵位はそう高くはないが、当主ヴィルヘルムがレグナリア王国軍の統括長官を務める武門の大家。邸の石造りの外観はなるほどいかめしい重厚さで訪問者を圧倒するが、嫡男エリクスの婚約者であるアンナが招かれた私的な居間は、思いもよらず女性的で美しい。緑の地に小花が描かれた壁紙に優美な曲線を描く白い調度。窓から差し込む陽光をガラスのシャンデリアが集めて散らす。中庭に面した窓からは、つる植物の巻きついた柱をもつ美しい四阿が見えた。
きらきらと光の粒が舞うような部屋の長椅子に向かい合って腰掛け、アンナは背筋をぴんと伸ばして、金の巻き髪をゆったりと結い上げた将来の義母から花嫁心得を拝聴していた。
「ですからね、わが家は子爵ではあるのだけれど、実質伯爵。伯爵と同等なのよ。おわかり? アンナさん」
まったくわからない。
この話を聞くのは三度めだ。ガルシア家にはかつて伯爵に陞爵する内定があったが、時勢がかなわず子爵にとどまった、というくだりからアンナは毎回混乱してしまう。
初回は己がもの知らずなのかと帰宅後に貴族法典を紐解き、疲れて眠り落ちるまで、寝台に入ってからも悩み続けた。しかしアンナに出せる結論は変わらない。正式な叙爵がない以上、子爵は子爵だし、伯爵は伯爵だ。
「まあ……」
ガルシア子爵夫人ソフィアの演説に、小さな体をさらに縮め、曖昧な相槌を打つのがアンナの精一杯。
思う反応でないのがつまらないのか、すみれ色を垂らした濃青の瞳を細め、ソフィアは扇子をひと振り。ジャスミンの芳香が広がる。
「アンナさん、お茶のおかわりはいかが……あら、ほとんど飲んでないじゃない」
アンナの茶器は、すでに湯気をたてていない。
「このお茶はお菓子のように甘く……私にはひと口づつゆっくりいただくのがちょうどよくぞんじます」
「そう? あなたほんと、のんびり屋さんなのね。そうね。王都には南方からお砂糖が安く入るけど、アンナさんのフェルミ領ではまだかしら。わたくし、もう甘味のない生活なんて考えられなくって。アンナさんはあちらではどんな甘味を?」
「私は、良い子でいたとき、干した果物や芋をいただけるのがご褒美でした」
「んまぁ! フェルミはずいぶん素朴なものを食べていたのね。いいのよ、ここでは思う存分甘味を召し上がって」
近年、布を色とりどりに染める染料のほか、人が食べるための着色料が輸入されるようになった。一見ぎょっとしてしまうような、青や紫に桃色、明らかに自然界にはない鮮烈な黄緑色の菓子が、型抜きレースと金めっきで彩られた皿に芸術的に盛られた光景は、さながら絵本にある夢の国のお茶会のよう。
「ありがとうぞんじます」
淑女の笑みを浮かべ、ソフィアいちばんのおすすめだという、宝石に似せた鮮やかな色の砂糖菓子をひとかけら摘む。ちゃり、と甘い結晶がアンナの舌を刺した。
たんぱく質の膜を匙で掬い取り、香辛料とともに煮込まれた濃厚な甘い茶をひと口啜る。アンナの生家では搾りたての牛乳が毎朝小作人から届けられる。厨房でじっくり加熱消毒された暖かいそれを朝食の席でいただくのが日常だ。
「私の郷の牛乳とは違う飲み心地ですね。淹れ方に秘訣が?」
「王都に牧場はありませんから、これは缶詰の濃縮乳なのよ」
「まあ、左様でしたか」
帝国の技術は、痛みやすい牛乳を缶に詰めることで長期保存を可能とした。国力の差を思い、受け皿に戻す茶碗がかち、と小さく音を立てた。
「やあ母上、アンナ。ずいぶんと盛り上がって……は、いないようだね」
アンナは慌てて立ち上がり、礼をとる。
流行りの少女小説の王子様さながら、フリルの多いドレスシャツにレースの胸飾り、細身のトラウザーズに身を包んだエリクスが入室した。過剰な装飾だが、彼が着るとなんとも様になっている。
「んもう、エリクス。レディが二人もいるのよ。ノックの習慣は忘れてしまったのかしら? それに、待たせすぎです。アンナさんが今日来ることは知っていたでしょう?」
「まあまあ、そんなに怒らないでください母上。遅れたのには、やむにやまれぬ事情があるのです」
「あら、いったいどんな高尚な事情なのかしら? 話してみて、もし、わたくしたちを納得させられないと……怖いわよ?」
ね、アンナさん、と片目を瞑るソフィア。魅惑的な仕草に、アンナはつられて首を縦に振った。
「ああ、アンナ! 聡明な君なら、きっとわかってくれると信じてる。実はね……」
「はい……」
こくり、アンナの小さな喉が鳴る。
「実は……この、手に入れたばかりの胸飾りの、結び方に迷っていたんだ!」
「……まあ」
大仰な身振りで悩める己を主張するエリクス。芝居じみた動きも、彼がやると滑稽にならないから美形は得だ。
「知ってるかい? 胸飾りの結び方にはいくつも種類があってね。たたんでひだを作るか、蝶に結ぶか、はたまた長く垂らしてブローチを留めるか……実に奥深いものなんだ」
「まあ……」
なんとも返答に困ってしまう。何か気の利いた返答をしなければならないと、アンナは真摯に考える。
「……前日に、決めておくのはいかがでしょう」
「そんなの、今日になったら気持ちが変わってしまうかもしれないじゃないか」
「では……どなたかに助言をいただくというのは」
「お洒落は、自分で決めたいものだよ」
「悩まなくて済むほかのお洋服に変更……」
「それじゃあ、トラウザーズも、髪型もやり直しだ!」
「………………」
何か気の利いた言葉はないか。王都を席巻する今様のお洒落に対し、アンナの引き出しはあまりにも少ない。ぶわり、ジャスミンがひと際強く香る。そっぽを向いて扇子を仰ぐ、貴婦人の「もう結構」の合図。エリクスの事情は、ソフィアを納得させるのに失敗したらしい。
「ああ! 母上。そんなに難しいお顔をなさらないで。外でやらない憂い顔を見られるのは息子の特権ですが、あなたには、やっぱり大輪の花のような笑顔が良く似合う」
母の隣に腰掛け同じ色の瞳で、よく似た顔を覗き込む。つん、と顔を背ける母の扇子をつつき、
「ねえ、これ、新調した扇子ですね。母上お気に入りの神話のひと幕だ。女神が使徒に祝福を与えるところ、とてもよく描けてる。装飾が少ないから前の羽飾りのものより、顔周りで母上の髪型を引き立ててる。さすが、趣味がいい」
こみあげる笑いを抑えようと、ソフィアの口元がぴくぴくと揺れ、やがて堪えきれなくなり、よく似たかんばせの親子は顔を見合わせ笑った。
「……んもう、お口が上手なんだから。わかりました。今回だけは許してさしあげます。今夜の晩餐、あなたのぶんだけは、大好きなパセリをたっぷりと振りかけるよう料理長に伝えておくわ」
「なんてことだ! それでは一日の楽しみがなくなってしまう!」
「ふふっ、では、これからは気をつけることね」
「かしこまりました。わが親愛なる母上」
手を取り指先にキス。ジャスミンの香る中、物語のひと場面を見るような美しい光景に、アンナは頭がくらくらする。
じわり、慣れないヒールの中で親指が傷んだ。




