王都
「まあ」
声に出すのを、すんでのところで飲み込んだ。
思わず感嘆が漏れてしまう程の美貌を目の前の少年、エリクス・ガルシア子爵令息は持っていた。
(……綺麗な方だわ)
陽の光を受けてきらきらと輝く金髪、磨き上げた宝石を嵌め込んだような深い青の瞳。気まぐれな神様が特別手をかけて誂えたのでは、と子どもじみた妄想に耽りかけたところで、アンナ・フェルミ伯爵令嬢はそっと目を伏せ思考を打ち切った。
他人の顔をじろじろ見てはいけません、くらいの分別ならとっくについている。それでもつい視線が惹かれてしまうのを押しとどめるのに、さほどの労力は必要なかった。彼がアンナの控えめな容姿にがっかりしたのが、なんとも分かりやすかったからだ。
痩せた小さな体。平民にも珍しくない栗色のくせ毛と灰色の瞳。鼻の頭と頬にそばかすを散らせた自分は、彼の隣に並ぶにはあまりにも地味だ。
一瞬左眉を吊り上げた彼は、隣に座る母親に肘を突かれて取り繕うように微笑みを整え、互いに杓子定規な自己紹介を交わした。
アンナ十三歳、エリクス十四歳。王命による婚約者たちの、初顔合わせの場面である。
◇◇◇
アンナは辺境の山間部をおさめるフェルミ伯爵家に産まれた平凡な娘だ。
酪農が盛んな領で、両親と使用人、領民たちに愛されてすくすくと育った。アンナが五歳のときに弟が産まれ、時を同じくして領で『あれ』が見つかった。当時幼かったアンナが詳細を知るよしもないが、それからフェルミ家の日常は一変した。父は単身王都詰めとなり、代官として残された母が慣れない仕事に奔走する日々。嫡男であり、まだ赤子の弟に大人の手がかかったことも重なり、やがてアンナは弁えたおとなしい娘になった。
そして十三歳になったいま、ふたたび状況が動く。長らく戻らない父から、妻と娘を王都に呼び出す文が届いたのだ。
使用人が慌ただしくまとめた荷物に愛用の糸巻きをしのばせ、王都行きの馬車に乗り込む。アンナは胸がどきどきした。三日間の道のり、もちろん護衛や使用人はいるが、王都に着くまでは母をひとりじめできるようでうれしい。もっとも、子どもらしく甘えるには理性が勝ちすぎて、いつもより少し口数が多い、ほどにしかはしゃげなかったのだが。
「アンナ、君の結婚相手が決まったよ」
「まあ」
フェルミ家の王都タウンハウスの居間にて、まだ見ぬ婚約者への甘い期待より、久しぶりに会う父のやつれた姿への驚きで声が出た。はしたない、とあわてて両手で口をおさえたその様子に、父は細めた目元を少しやわらげる。
「お相手はガルシア子爵家の嫡男だ。爵位は我が家よりひとつ下だが軍部の大物だ。難しいお家だがご子息は穏やかな気性と聞く。恐れることは、そうないはずだよ」
「はい。承知いたしました」
「……嫌ではないかい?」
問われ、アンナはしばし黙考する。
「きっと、むずかしい大人のご事情がおありなのでしょう? 私も、貴族の娘ですもの。いつか政略でどこかに嫁ぐことは覚悟しておりました」
「……反抗的でないのはとても助かるが、父としては、その素直さが心苦しいよ」
母が、父の手をそっと握る。
「ふふっ、おとうさまとおかあさまのような、信頼しあえる夫婦になりとうございます。お相手方のお話と、できれば、私の役割を教えていただければ、うれしくぞんじます」
母の肩にぐったりと頭を預ける父は、よほどお疲れなのだろう。せめて安心をさせたくて、アンナはにっこりほほ笑んだ。
◇◇◇
郊外の離宮にて婚約者との顔合わせを終えたタウンハウスへの帰りみち。領地とは違う、石の建物が並ぶ重厚な街並みを、車窓からアンナは興味深く眺めた。
活気にあふれたレグナリア王国の王都。直接の戦いの舞台にならなかったとはいえ、戦時下には武器とするために教会の鐘も民家の風見鶏も、果ては鍋や釜までもが接収され、石畳はすべて剥がされたと聞く。
それでも終戦から三十年も経てば街は新しく生まれ変わる。往来を行き交う人々の表情はおしなべて明るい。復興で石畳に代わって敷き直されたのは陶器の板。馬車の揺れがずいぶんと減って快適になったと年配者は語るが、アンナは昔を知らない。知らないが、この当たり前のように存在する明るさが壊れてしまうのはおそろしいと、単純に思った。
悲しいことなど知らぬと言わんばかりの整った街。大通り沿い、ひと際立派な店構えの商店で扱っているのはいま流行りの帝国風のドレスだろうか。近年レグナリアにも輸入されるようになった透明の板ガラス越し、淡く明るい色の布地がさながら色彩の滝のように飾られているのが、馬車の中からでも伺える。
知らずこぼれそうになったため息を、アンナはそっと袖口に隠した。
(私は……あの方の家族になれるのかしら)
己の容姿は彼の審美眼には敵わなかったらしい。だからといってこの婚約は「気に入らないから」くらいの軽い理由で反故にはできない。
今日に先だっての説明で、現在政の場では軍を維持したい武官派と、縮小したい文官派の間で対立が深まり、遂には血なまぐさい事件までもが起きたのだと父は言った。
そんな文武両派閥を融和させるための、王家肝いりの政策。文官家のアンナと武官家のエリクスとの婚約はその象徴であり代表。まわり回って次に起こりえる戦争を止める楔になるのだとも。
アンナは戦争が怖い。
かつて領地の施設にて、慰問に訪れた小さなアンナを喜ばせようと片手で器用に口風琴を演奏してくれた元兵士を思い出す。優しいおじさまだった。風にはためく袖を不思議に見ると「もう痛くはないんだよ」と笑ってくれた。
白い壁に染みついた消毒液の匂い。廊下の向こうから漏れ聞こえた呻き声に立ちすくんでしまったことを、アンナは忘れられない。
「アンナ、務められそうかい?」
父の声に、隣に座る母が息を飲む。
出来る出来ないではない。怖くても、やるしかない。
「務めます」
手の震えをぎゅっと押さえつけ、向かいの席から問う父に、淑女教育で身につけた微笑みを浮かべてみせた。
遠くに聞こえた、どん、という重低音に気を取られ、すぐに再び外に目をやったアンナは、父と母の心配に満ちた視線には気づかなかった。音の正体は結局わからないまま、不安だけがしみのように胸に残る。
物語のような恋でなくていい。優しく寄り添いあえる夫婦になれればいい。心の中で、よあけのかみさまに祈りを捧げる。どうか、これからの日々が安らかであれますように。




