四阿
ガルシア邸の庭、人工の池のほとりに設けられた四阿。
石の柱を彩った茉莉花とつるばらも盛りを過ぎ、葉を落とした。その黒い枝がひびにも見えるさまに、アンナはうら寂しさを覚える。
朝いちばんからの大事業、衣装の打ち合わせに気疲れしてしまったアンナは、帰宅前の空き時間にガルシア邸の中庭を散策していた。
「エリクスさま?」
背もたれの陰になり気づくのが遅れた。てっきり自分ひとりきりのつもりだったが、先客がいたようだ。
アンナの呼びかけに、長椅子から輝く金髪の青年が気だるげに身を起こした。
「ああ、アンナか…………うたた寝してたみたい」
ふわぁ、と猫のような欠伸をひとつ。
「上掛けをお持ちしましょうか」
「いらない。使用人みたいなことしないで」
「……失礼いたしました」
一歩下がり、礼。
その姿に、エリクスは左の眉を器用に吊り上げた。
「お邪魔いたしました。すぐに立ち去ります」
踵を返そうとしたアンナを、婚約者の声が呼び止める。
「べつに、追い払いたいわけじゃないんだ。アンナも、ここに座りなよ」
ぽんぽん、長椅子の隣を叩かれる。
アンナは少し迷って、人ふたりぶんの間をあけて腰かけた。
エリクスはまだ眠気が抜けないのだろう。目を閉じてうとうとしている。
組んだ脚が長い。
会わないうちに頬の輪郭が研ぎ澄まされ、精悍になったと思う。
骨ばった指。着崩した衿元から覗く喉仏。どこもかしこも線が硬い。
見てはいけないものを見た気がして、アンナは、長く使われない庭球のコートに視線を移した。日が暮れかけている。
「…………ふゆをこえ、はるをまち……」
いまの若者は歌わない戦時の歌が、口をついてこぼれた。
戦場にて故郷を思う兵士をなぐさめる旋律は、優しく、そしてもの悲しい。
「……われ、ふるさとをかなたにおもう……」
途切れたアンナの歌声をエリクスが継ぎ、すぐにやんだ。
二人の間に、晩秋の風が吹き抜ける。
「エリクスさま、お酒を召していらっしゃいますか?」
「そうだよ。悪い?」
「いいえ。ただ、エリクスさまも大人の男性なのだと思いました」
「ふふ。仕事のあとに仲間とね。知ってる? 流行りの飲み方。蒸留酒に柑橘を絞って炭酸水で割るんだ。グラスのふちに塩か、砂糖を付けるんだよ。派閥があってね、僕は塩派なんだ」
「まあ。左様ですか」
彫像めいた美貌を人間に戻すえくぼ。
庭球の球を追い、汗ばむ体を冷ましてくれた柑橘水。
木陰で笑いあったあの日が脳裏をよぎる。
「もっと歳が上の方々は、小さなグラスでそのまま飲むんだって。僕にはちょっと無理かな。とてもきついんだ。父上はどっちの飲み方だろうね」
「……あいにく、ぞんじあげません」
「アンナは今でも練兵場に通っているだろう? 僕も子どものころは通ったよ。ほら、ランツ分隊長。いまは小隊長だったっけ。めちゃくちゃにしごかれたよ。でもアンナは仲良しだから、怖くないのかな?」
「……個人的に友誼を結ぶものではありません」
見習い兵士ですらない、片隅で型を繰り返すだけのアンナなどが、軍の高官であるヴィルヘルムや、五十人規模の小隊を抱えるランツと親しく振る舞うなど畏れ多いことだ。
「僕は行っても行かなくてもいいって言われた。父上は僕に無理強いしないんだ……楽でいいよ」
記憶にあるより低い声が落ちるたび、酒精が鼻につく。
「僕だって一所懸命やってたのにさ。向いてないんだって。後ろにいろって、兵を預けられないって言われた」
「エリクスさま……?」
「アンナは違うみたい。アンナは信用されてる。僕とは違う……」
ついに両手で顔を覆ってしまったエリクスの表情は見えない。
「……エリクスさまは、立派にお勤めです」
「そんなんじゃない!……僕はアンナといると駄目になる……アンナが、アンナは……」
そうとう酔っているのだろう、支離滅裂な言葉が散らばる。
「エリクスさま……」
差し出した指は震えて、届かぬままその場に落ちた。
「ちがう、ちがうんだ。こんなことを言いたいんじゃないんだ!」
いらいらと頭をかきむしるエリクス。
こんなとき、アンナは適切な言葉を見つけられない。
己の協調性の低さに歯噛みする。
「…………ごめん。ごめん、アンナ……もう行って。今は……顔を見られたくない……」
返事の代わりに立ち上がり、そっと礼をとった。
背後で聞こえたすすり泣くような声は、きっと空耳だ。
聞いてはいけない。息が、苦しい。
◇◇◇
嫌われた……嫌われてしまった……
ガルシア邸を慌ただしく辞去し帰宅する馬車の中、アンナは自分自身を抱きしめ震えていた。
怖かった。
自分に向けられた怒鳴り声。身がすくんで、逃げだすことしかできなかった。
いつか話ができればいい。いつか寄り添いあえればいい。いつか、いつかと問題を先に送り続けたつけがとうとう回ってきた。
(あんなにも……嫌われていたのね……)
思えばエリクスの表情に影がさすとき、ほとんどは自分を見ていた。
気づいていたのに、認めるのが怖くて目を伏せた。
きっと、本心ではいつまで経ってもガルシア家になじめないアンナを、うとましく思っていたのだろう。
(……エリクスさま、こわかった……)
怖い、怖い、悲しい。
あんな怒声を向けられたのははじめてだった。
びりびりと身を刺したエリクスの感情が、まだ肌に残っている。
それを消したくて、己の肩にまわした手に、いっそう力を込めた。
◇◇◇
今日はアンナの帰宅後にダンスの練習を共にやろうと、玄関前のエントランスでそわそわと待っていた父クラウスは、娘のただならぬ風情に血相を変えた。
「何があった、アンナ!」
「おとうさま……なんでも、なんでもないのです。問題ありません……」
気丈に振舞おうとするが、父に手を添えられてへなへなと膝が抜けた。
息が、あがっている。
◇◇◇
「……落ち着いたかい?」
自宅の居間。香ばしい薬草茶の香り。父の落ち着いた声に、ようやく呼吸を取り戻した。
「はい。お見苦しいところをお見せしました」
「親子の間でそのような言い方をしないでおくれ。私は、ただアンナが心配なのだよ」
「おとうさま……」
「何があったのか、聞かせてくれるね?」
「はい……」
アンナは訥々と、日中のできごとを語りはじめた。




