星屑のキス
近頃やっと仕事の目処が立ったという父に伴われ、はじめて登城する馬車の中で、アンナは見慣れぬ風景に圧倒された。
外門を抜けると堀にかけられた橋があり、水面までの高さに怯えながら渡りきると内門にたどり着く。二段構えの城門をくぐってようやく城の敷地内だと教わったが、アンナの想像するお城らしき建物は見えない。
開かれた内門の正面、まず目に入るのはそびえ立つ大きな石組み。左へ誘導されるように進み、しばらくすると今度は右へ折れる。石組みの壁に挟まれた馬車は、真っ直ぐ城へ向かわせてもらえない。
視覚に強く訴えてくる圧迫感に緊張がいや増す。
「アンナ、あちらの壁を見てごらん。上の方に細い切れ込みがあるだろう」
父の言葉に従い目をこらすと、確かに石組みの上部に、縦に長い長方形の穴が等間隔に並ぶのが見て取れた。二階の窓ほどの高い位置にあるそれは、教えられなければ見落としてしまいそうだ。
「あれはね、敵がここまで入ってきたときに、味方が安全に矢を打つための穴なんだよ」
「まあ」
「ありがたいことに、いまだ用途を果たしたことは一度もないがね」
ふるり、背筋が震える。
あそこから放たれる矢は多くの敵の命を奪うだろう。だが、ここまで攻め込まれてなお巻き返す、という道筋がアンナには見えない。
「この先も、未来永劫あれを使わない国であるように努めること。それが私たちの仕事だよ」
そのために内政不安の種である武官派文官派を融和させること。アンナの結婚に課せられた使命。
浅くなる呼吸をなだめようと、アンナはつとめて意識して、深呼吸を三つした。
◇◇◇
石組みの迷路を抜けると視界が開け、噴水を中心に丈の低い樹木が植えられた先、無機質な石造りの建物が鎮座している。城というには想像していたより小さい。アンナの考えを見透かされたのか、
「これは政務棟。文字通り臣下が政務を行うための建物だ。王族の皆様がお住まいの王城はもっと奥にある。ざっくりと敷地内にある建物全てをひっくるめて城、と呼ぶがね」
説明してくれた父に手をとられ、馬車を降りた。
「さて、本来どの省にも属してない、見学者扱いのアンナが歩けるのは一階、このフロアだけなんだが、私の占有室があるのは二階なのでね。この証明書を無くしてはいけないよ。帰るときにはこの受付で返すこと」
首からかけられるように、紐の付いた札を受け取る。
「特別だよ」
人差し指で唇を押さえる父に、小さく驚く。
父はそんな愛嬌のある仕草をする人だっただろうか。
いつも忙しなく指示を飛ばし去っていく背中しか、アンナは知らない。
階段前で一度、占有室の前で再び警備の兵に証明書を見せ入室する。見渡す限り廊下で警備が立つのはこの部屋だけだ。その重要度が伺い知れ、改めて気を引き締めた。
◇◇◇
扉を開けると実務的な、言い換えれば殺風景な仕事部屋。事務机の上に積まれた書類はきちんと角が揃って気持ちが良い。
「今日アンナに頼みたいのはこの書類の検算と清書。タウンハウスの帳簿の出来が良いのでね。手を借りたいと思ったんだ」
渡されたのは数字がびっしりと記された薄い帳面が一冊と、定型文の礼状が十通ほど。
確かにまだ未成年のアンナにもさして苦もなくこなせる作業量だが、自分程度にできる仕事なら、外部の人間をわざわざ入れる意味がわからない。
「私で、よろしいのですか」
「アンナが良いのだよ。アンナは嫌かい?」
「いいえ……いいえ。私でよろしければ精一杯務めます」
父の役に立てることを、アンナはうれしく思った。
ペン先が紙を掻く音と、時おり紙をめくる音。飾り気のない机と椅子は、アンナの薄い体に思いのほか馴染む。
まずは手のかかる方からと、検算を二度行い、もう一度抜けがないか確認して、アンナは席を立った。
「おとうさま、ご確認を」
「ああ、ありがとう」
帳面を渡し、すぐに次の仕事にとりかかろうとするのを止められる。
「疲れただろう。休憩にしよう」
「まだ疲れてませんわ」
「私が疲れたのだ。外を見てごらん、日がすっかり高くなってる。父を労わると思って、お茶に付き合ってくれないか」
「まあ。そういうことでしたら、喜んで」
本棚に並んだ茶器は飾りだとばかり思っていたが、帝国製の保温瓶から湯気の立つお茶が注がれて、いかにも効率重視の父らしいと口元が緩む。
「……とても、ほっとします」
懐かしい故郷の薬草茶に、肩の力が抜ける。
「そうだろう。大きな声じゃ言えないが、私はどうにも今様の練乳茶が得意じゃなくてね。アンナはきっとガルシア家でよくいただくだろう。もう慣れたかい?」
「……いずれ慣れるよう、努めます」
一拍の間が落ちた。
「そうか……エリクス殿には良くしてもらってるかい?」
「問題ありません」
父の探るような視線をやりすごそうと、アンナは手のひらの中の緑がかった琥珀の水面を見つめる。
「そうか。困ったことは?」
「ありません」
「エリクス殿と、何か話したりは?」
「努めます」
逃れるように顔を逸らすと、開いた窓から遠く、赤や黄に色づいた山々が見えた。
この季節、故郷のフェルミ領では茹でた栗を半分に割り、匙ですくって食べるのがごちそうだった。
当たり外れがあり、ほくほくした薄ら甘いのに当たると、今日は良い日だと嬉しくなった。
ここでの栗は、たっぷりの砂糖で煮絡めたものを優雅に摘むものだ。
大丈夫。歯を溶かすような甘さにも、いずれ慣れる。
「アンナ」
父の呼びかけに、意識の焦点が戻る。
「今日はね、手伝いなんて口実で、君とお喋りをしたくてここに呼んだんだよ」
「お喋り……ですか?」
予想外の言葉に、瞬きを繰り返す。
「そうだね。……うん。今日は久しぶりに君をエスコートをして驚いた。ずいぶんと背が伸びた。すっかり大人びて、誰が見ても立派なレディだ」
「そんな、足りぬことばかりです。髪の香油を選ぶことも、自分ではままなりません」
苦い記憶に目を伏せる。
「アンナの髪質は私に似たんだね。雨の日にはどうにもまとまらなくて苦労する」
「まあ。おとうさまもですか」
いつも隙のない姿に整えられた父が鏡の前で苦心する姿を想像して、微笑ましい気持ちになる。
「そうさ。君の弟レオポルドも、亡くなった私の父も同じだよ。そうだ。私の愛用している整髪料は軟膏のような質感でね、香油よりもしっかり髪の浮きを抑えてくれるんだ。早速商人に言いつけて、女性向けの香りのものを届けさせよう」
「ありがとうぞんじます。レオポルドもおじいさまも同じだなんて、三代に渡って同じ悩みを共有していると思えば、なんだかくすぐったいですわ」
「祖父の祖父と、そのまた祖父と、遡って初代様までたどり着いたら、なんとも浪漫だね」
「フェルミの血の証明ですわね」
父娘の間に笑いがこぼれる。
「アンナは母にもよく似ている。パメラもそばかすが愛らしいだろう?」
突然の父の惚気に、少しきまりが悪い。
「彼女の生家ではそばかすを、星屑のキス、と呼ぶんだ。それこそ浪漫だね」
「まあ!」
「アンナは覚えていないだろうけど、パメラは小さなアンナに何度もキスをして、星屑の加護を願ったんだ」
窓の向こう、遠くの山々に、父も故郷を見るのだろう。
その、少しやつれた横顔に、鼻の奥がつんと傷んだ。
アンナは父に、母に、弟に、愛する人々に、よあけのかみさまの加護を願う。




